以下は、安保法制反対デモの「ユーチューブ」映像を媒介にしてのやりとりです。
yさん(女性)は、珍しく実名で顔写真入りですが、この場に載せるので、yさんとします。
安倍首相の強い支持者ですが、以下にあるように、途中から【教育】がテーマになり(青字の部分)、一般にありがちな見方でしたので、お応えしました。
時間的に余裕がありませんでしたので、文章の推敲はできていません。
内田卓志さんの「武田哲学へのインタビュー」の6回と7回が教育問題でしたが、その補足のようになりました。
y
心の芯が優しくない人ってどのような人ですか?興味あるので教えて下さい。
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武田康弘
幼少期に、その子の存在のありのままが受け入れられ、愛されて育った人は、自分を愛せるので(自己存在の肯定)他者を受け入れ、愛することもできます(自分の我と他者の我は一つメダルの表裏)。
表向き(外面)ではなくて、心根が優しいとは、実存(社会人とか国家の一員という前の赤裸々なわたしのありよう)の次元で、自他を愛することができる人のこと、と言えます。
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y
武田康弘先生へ 愛されて育ってないとはどのような人ですか?具体的にお願いします。
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武田康弘
親の考え方に従わされて(特定の理想像を要請される)、ありのままの心を認めてもらえないと、こどもは、自己の存在を肯定できなくなります。いつも「わたしの想いや関心」が否定されて、ある「型」に誘導されると、外面優先で形式的な言動に陥ります。
そういう人は、自分自身の心身と正面から向き合うことを恐れます。
具体例=わたしは「こう思う」と語らず、日本人は「こうすべき」というように語ることで、生身の自分としての責任を負わずに「国家に逃げる」。そのために、わたし固有の内的世界が育たず、実存次元=人として一番大切な領域が貧弱。
そういう人は、他者の自由な言動を嫌悪し、特定の思想を国家権力で押しつけること、そのような教育をよしとします。
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y
モラハラってやつかな?先生の見解を総合評価すると無秩序になるような感じですけど。それって我がままの分類になりませんか?そのラインは誰がどのように判断するのですか?
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武田康弘
yさん、わたしは、息子を育てた経験と、孫と深く関わっている経験からも言えますが、こどもの我儘を認めて一緒に遊ぶ=心身全体で対話すると、こどもは、内的に(強制ではなく)成長し、一段づつ階段を昇ります。
だんだんと我儘を超えますが、それは、我儘のままだと、自分の世界が広がらず、よい関係性が築けないことを体得するからです。こどもはよく受け入れられ存在を丸ごと肯定されると、内的に次のステップに進みますが、否定されると自我はうまく燃焼できずに、そこから内的成長をやめてしまいます(外の目に怯えるだけの存在になる)。
そうなると、内側からの秩序の形成に失敗してしまいますので、悲劇です。
「秩序=善美の基準」は、各自の心にあり、それは、存在の肯定(愛される)の中で育つと、誰でもが先験的にもつ能力(真偽、善悪、美醜を知る能力で、人間の言語使用と同じく先験的)ですから、開花します。
また、モラルの各自の違いは、公共性(互いの対等性と自由を認め合う「対話」によりつくられる妥当性))に基づいて調整されます。ここに、政治権力の意思が入ると、民主政は元から崩れてしまいます。「国家意思」という見方ではなく「公共意思」という見方が大切になります。
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y
その国家意思は公共意思を投影した姿なんですけどね。 民主主義という形で秩序が保たれる。 人間の育成にマニュアルが存在するという錯覚は、 先生が自己投影しただけなんですよ。
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武田康弘
「人間の育成にマニュアルが存在する」 ---という考えとは対極なのです。
個々人の存在、赤裸々な意識からの出発ですから、予め固定された「主義」を持たないのです。マニュアル的思考とは逆になります。一人ひとりの自由と責任による。
公共思想と国家思想がイコールになることは、残念ですがなかなかないことです。市民の公共性こそが本来の公共性なのですが、それと乖離する場合が現実には多いです。 政治レベルの話で言えば、 今回の安保法制もどの世論調査でも、いま通すべきではないとの答えが、いま通すべきとの答えを大幅に上回っています。公共意思と国家意思(議員意思)が異なっている一例です。
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y
内的成長を止めると思われた子供は先生が接した子供限定ということですね。それが全てではないということでいいですか?では最初に先生が述べた【心の芯が優しい】という人は定義化できないので、個々の感受性に頼るしかないということでいいですね。市民の公共性と国家思想がイコールでは無いというのは個々の思想が反映されるのが理想と思いますが、議会制民主主義なので多くに支持された政党が法をつくり、国会で承認され国民が好き嫌い関係無く遵守するということは、未来永劫変わりません。メディアの偏向報道については、反対賛成双方が言い合っていますのでそれも感受性~の想像の領域になるのでしょうね。
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武田康弘
個々の感受性、あるいは、個々の感じ思い考えること、に付く、といういのは、人間の営み・活動を考える原理中の原理です。それを超えることはできません。
また、選挙で選んだ議員がつくる内閣に、あらゆる政策を一任したと考えるのは、近代市民社会の民主政では間違いです。国を左右するような大きな問題では、国民投票が必要ですがその制度が日本にはいまだありませんので、その問題を争点にして総選挙しなければなりません。安倍自民党がそれをやらないのは、負けることが分かっているからです(世論調査ではっきりしているので)。 民意とは異なることを強行しようとするので、大きなデモとなり、日本を代表する世界的な文化人の多数が反対を表明し、法律学者や弁護士の連合も反対を表明し、東大や京大や多くの大学の教授たちの多数も反対しているのです。
重ねて言いますが、各社(自民党を支持するマスコミを含め)の世論調査で、この法案を通すことに賛成の人は少数なのです。
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y
反対派の人物像は先生の希望であり定義すらないということですよね。だとしたら反対派がマジョリティということがイマイチです。あくまでも個人的な例えを書くと、デモ参加者を全国で百万人潜在的反対者を5倍と仮定しても5百万人です、それに対し日本の有権者数は1億5百万=反対派はたったの3%程度です。残りの人達は賛成派ということになります。先生はメディアの内閣支持率を根底から信用していないのに、どうして反対派がマジョリティという結論に至ったのでしょうか?物理的に定量的に具体的に教えてください。それともメディアを都合良く信用しただけで、個人的な確定根拠は無いという残念な見解ですか?
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武田康弘
人物像とは、像ですから、もちろん、わたしの経験から直観したものです。絶対に、という保証はありませんが、絶対にという保証はどのような事柄でもないですよね。
ただ、見てください。往年の大女優、吉永小百合さん、現代語・源氏物語を現した作家の瀬戸内寂聴さん(93歳)、作家三島由紀夫と親しかった歌手の三輪さん、旧満州国生まれで世界楽団の頂点=ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた指揮者の小澤征爾さん、世界的な作曲家の坂本龍一さん(ラストエンペラーのテーマなど)、アフガニスタンで奇跡のような水路建設により人々を救済し、21世紀の偉人と言われる(現地では神のように尊敬され慕われている)中村医師、ノーベル賞作家の大江さんや益川さん、落語家で人気者の鶴米さん、東大法学部で憲法学会の中心(今は早稲田大学に移籍)の長谷部教授と大多数の法学者たち・・・・・上げればきりがないですが、安保法制に強く反対する人たちです。みな豊かな人間性を表す顔(「顔は顕現する)をし、話し方も内容も「芯の優しい」そしてそれを支える強さを持つ人々とわたしには見えますが、いかかでしょうか?
なお、この法案への賛成(今国会で通すべき)がかなり少数なのは、各種の世論調査で明らかであり、論をまちません。
ソクラテス人形
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yさんのこの問題への返信は、ここで終わりとなり、いまは安倍首相への強い支持の立場から質問をし、アフガンの中村医師については、個人プレーとして全否定しています。
武田康弘