わたしは、一人の人間としての日本人です。
少し詳しく言うと、
わたしは、善美に憧れる一人の人間としての日本人です。
けっして、
日本人としての人間ではありません。
日本人という属性を先立てるのは、思想の原理上成立しません。
安倍首相ら閣僚の大多数が所属する「日本会議」の主張は、原理を踏み外していて、論外です。
他の生物とは異なる人間という種であること、これが先立つのです。これは当然の話と思われるでしょうが、この簡明な思想の原理を踏み外すところに、ニッポン主義=国体思想の異常さ・異様さが現れています。
中国人(古代文明からでいくつもの民族)という属性を先立てたり、アメリカ人(まだ200年あまりの歴史)という属性を先立てたら、人間としていかに生きるか?というフィロソフィの根源的問いは成立しません。
どこの国に生まれようと、国籍がどこであろうと、言語がなんであろうと、
生身の人間としてどう考え、生きるのか?を問うのであり、それを逆にして、〇〇人や△□国籍者として考えるのでは、【人間存在への問い】は消えてしまい、また、【人権という共通項】もなくなります。
実に愚かな考え方でしかありませんが、自民党や次世代の党の国会議員の多くは、そのレベルでしか思考できていないのです。みな右翼団体=「日本会議」のメンバーで、異常・異様な思想を共有してるのには、呆れ返るよりありません。
戦時中(1943年)の『中央公論』の主張そのままです。
「わが日本においては、国体を離れていかなる事実もなく、国体を離れていかなる個人も生活も存在し得ないことを、ここに改めて深思すべきである。」
安倍首相のように、自著で「日本人が先」を主張し、彼の親友で政府の教育再生実行委員の八木秀次(麗澤大学教授)のように「人権思想に怯えず、国民の常識に戻るべきである。」というのは、人間の生の原理を逸脱する思想で、愚かであると同時に危険というほかありません。
武田康弘