よく愛されて育ち、健康な心をもった人は、けっしてナショナリスト(愛国主義者)などにはなりません。
組織や制度(国家が最大)を愛する、というのは、ネクロフィリアの傾向にある人の物神崇拝(フェティシズム=生きている人ではなく下着などに執着する異常)でしかないのです。
以下は、fbでのやり取りです。
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武田
日本、ニッポン、にほん は、世界の中に存在しているのす。
日本人もニッポンジンも、みな、まず何より先に人間ー人類です。
あたりまえの話ですが、そういう常識を明晰に意識することが一番大切です。
ニッポンという強調こそ危険で恐ろしい思想はありません。ナショナリズムは最後はケンカ・戦争・人殺し・他者排撃しか結果しません。歴史の教訓。
同朋を愛するのは他者愛と共にでなければなりません。右翼の他国への罵詈雑言は、自身がイカレた人間であることの自己証明です。
日本、ニッポン、にほん は、世界の中に存在しているのす。
日本人もニッポンジンも、みな、まず何より先に人間ー人類です。
あたりまえの話ですが、そういう常識を明晰に意識することが一番大切です。
ニッポンという強調こそ危険で恐ろしい思想はありません。ナショナリズムは最後はケンカ・戦争・人殺し・他者排撃しか結果しません。歴史の教訓。
同朋を愛するのは他者愛と共にでなければなりません。右翼の他国への罵詈雑言は、自身がイカレた人間であることの自己証明です。
K
愛国心と国家主義は似て非なるものですからね。
武田
愛が排除になるなら悪でしかありませんからね。
k
おっしゃる通りです。
武田
また、人間や他の動物のように生きているものへの愛と、
国・学校・会社・組織などの抽象概念への支持(それも広義では愛と言えるかもしれませんが)とは全く異なる話で、それを一緒にするのはアクドイ詐術です。
わたしには「国」という幻想を愛する気持ちは生まれてから一度も生じたことはありません。
個々の人や、すばらしい人物はとても愛しますし、海をはじめ自然はとても愛しますし、音楽や美しいものはtとても愛しますが。
国・学校・会社・組織などの抽象概念への支持(それも広義では愛と言えるかもしれませんが)とは全く異なる話で、それを一緒にするのはアクドイ詐術です。
わたしには「国」という幻想を愛する気持ちは生まれてから一度も生じたことはありません。
個々の人や、すばらしい人物はとても愛しますし、海をはじめ自然はとても愛しますし、音楽や美しいものはtとても愛しますが。
k
武田さん 基本、「海をはじめ自然はとても愛します」が愛国心の源だと思っています。それ以上に発展してしまうのが、国家主義ですね。勿論、愛国心も行きすぎれば危険なので、基本武田さんのスタンスでいいと思っていますし、わたしはそれを批判しません。なんでも、「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですから。
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o君への返信 (ていねいに言います) 武田
あなたのすきな人、
好きな自然、
好きな音楽、
好きなスポーツ、
好きなもの、
よく見ると、たくさんの好きな「何か」かがあるでしょう。愛する、とは、それらの一つひとつへの優しい心・よろこびの心・慈しみの心。
美しいもの・よきものへの憧れと共に愛がありますね。
あんまり大きなものは、観念的・抽象的になり、愛とは言いにくいのではないですか。
国家愛とか世界愛というのは、具体の像を結びませんから、何かの【イデオロギーによる要請】のようになり、不自然に思えます。
ものや自然やスポーツなど身近な愛の世界を大事に生きていくと、必ず、生きている人や生き物への慈しみの心が湧き、生命愛のような感情が起きるのではないでしょうか。母性はその代表でしょうが、それは男女問わずの心だと思います。
ほんらいの愛とは、自然な感情で、それにより争いが起きるようなものではないはすです。
逆に言えば、争いが起きるようなら、それはほんとうの愛ではないでしょう。
身近な人やものを愛する気持ちが、自分の住む地域や国を愛することに結びつけば、それは自然な心ですからよいのですが、特定の伝統や国柄を愛すべき、という要請になると、自他のありのままの心を抑圧する酷い悪となってしまいます。
あなたのすきな人、
好きな自然、
好きな音楽、
好きなスポーツ、
好きなもの、
よく見ると、たくさんの好きな「何か」かがあるでしょう。愛する、とは、それらの一つひとつへの優しい心・よろこびの心・慈しみの心。
美しいもの・よきものへの憧れと共に愛がありますね。
あんまり大きなものは、観念的・抽象的になり、愛とは言いにくいのではないですか。
国家愛とか世界愛というのは、具体の像を結びませんから、何かの【イデオロギーによる要請】のようになり、不自然に思えます。
ものや自然やスポーツなど身近な愛の世界を大事に生きていくと、必ず、生きている人や生き物への慈しみの心が湧き、生命愛のような感情が起きるのではないでしょうか。母性はその代表でしょうが、それは男女問わずの心だと思います。
ほんらいの愛とは、自然な感情で、それにより争いが起きるようなものではないはすです。
逆に言えば、争いが起きるようなら、それはほんとうの愛ではないでしょう。
身近な人やものを愛する気持ちが、自分の住む地域や国を愛することに結びつけば、それは自然な心ですからよいのですが、特定の伝統や国柄を愛すべき、という要請になると、自他のありのままの心を抑圧する酷い悪となってしまいます。