思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

旭化成ヘーベルハウスの基礎の基礎ーミキサー車からコンクリートを流して放置でいい?

2015-10-22 | 社会批評

 ずいぶん前のことですが、ヘーベルハウスの建築現場で、捨コンと呼ばれる基礎の基礎の作業で、ミキサー車がコンクリートを流して何もせず、そのままにしているのを見て、驚きました。
わたしの自宅は、大成パルコンでしたが、捨てコン(隅だし)の時は、作業員が道具や足でこまめにコンクリートをならしていましたので、何もせずに見た目もフワフワの状態で固めてしまってもいいのかな? と思ったのでした。

   すべての現場がそのようにしていたかは分かりませんが、わたしが見て驚いて写真を撮ったのがこれです。その上につくった基礎の一部も、型枠をつくらずに、コンクリートブロックを置いてあるだけの場所もあり、これでいいのかな?と疑問に思いました。

    昔のことでしたのでそのことはすっかり忘れていましたが、今度の事件を知り、旭化成の基礎に対する考え方や施工が元々あまりしっかりしていなのではないか?と思えました。なお、一般住宅の基礎がどの程度であれば「よい」のかをわたしは知りませんので、これが「問題」になることかどうかは分かりません。これでよいのであれば、杞憂ということですが。

   とにかく、ほとんどの人にとって家を建てるのは一生に一度ですから、基礎や躯体についてはよく知り、納得できるまで聞き、現場も見て工事を進めることが大切だと思います。



武田康弘

「隅出し」と呼ばれる基礎の基礎(わたしは自宅を建てる時、つききり見ながら現場の人と話をして、いろいろ教えてもらいましたので多少知識があります)。

基礎の一部はブロック。
場所が特定されないように上下とも写真はトリミングしました(住んでいる人が不快にならないように)。

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ご参考までに、自家の大成パルコンの捨てコン(隅出し)の写真ー1984年(31年前)。

 


 

 

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宗教についての対話 第1回。 (内田卓志による武田哲学へのインタビュー)

2015-10-22 | 恋知(哲学)

  宗教についての対話 第1回。 (内田卓志による武田哲学へのインタビュー)

 
  武田康弘(63歳)     内田卓志(49歳)

 そろそろ武田先生への教育についての質問を終わり、次のテーマについて伺おうかと思いますが、一点申し上げておきましょう。
それは、デューイの研究家の藤井千春教授が、『「山びこ学校」の教育的意義の再評価 ―ジョン・デューイの「公共性」概念を観点にして―』で述べている点です。長くなりますが引用します。

(1)「初期社会科」の構造

「昭和22 年度版学習指導要領社会科編(Ⅱ)(試案)」では,社会科の学習活動について,「生徒の経験を中心として,これらの学習内容を数個の大きい問題に総合」したと述べられている。その理由について,次のように示されている。

「(一)学校内外の生徒の日常生活は常に問題を解決して行く活動にほかならない。

(二) 学校は生徒にとって重要な問題を解決するために必要な経験を与えて,生徒の発達を助けてやらなくてはならない。」

「初期社会科」では,自主的に調べ,考え,判断して行動のできる民主主義社会の建設を担う,合理的で自律的な人間の育成がめざされた。それは戦前・戦中の教育 が上からの命令に従順に従う人間を育成してきたことに対する,そして,そのことが軍国主義・超国家主義へと国民を導いたという反省に基づいている。「初期 社会科」では,合理的で自律的な人間の育成のために,子どもたちが自分たちで事実を調べ,自分たちでその事実の有する意味を究明し,どのように行動すべき か

を考えるという学習活動の方法,すなわち問題解決学習が採用された。子どもたちのそのような学習活動を展開されるために,「実生活で直面する切実な問題」を取り上げることが要請されたのである。

  以上のように、戦後の初期社会科教育理念には、武田先生の教育論と共通する思想を読み取れます。この教育理念には、ジョン・ディーイの教育哲学がベースに あるようです。かつて、敬愛する経済学者の宇沢弘文先生も、戦後の旧教育基本法の教育理念には、ジョン・ディーイの弟子たちの力が大きく関与していたと、 述べられておりました。私は、詳しくは存じ上げませんが、重要な視点と思いましたので言及しました。

 

  さて、次に宗教について考えていきたいとおもいます。宗教については、武田先生は、宗教家や信者との多くの対話を重ねておいでのようです。武田先生の経験 について伺う前のイントロとして、竹内芳郎先生の宗教論について述べたいと思います。竹内先生は武田先生の恩師とのことで私も数年前お会いしました。私が 大学生の時に最も影響された宗教論のひとつが竹内先生のそれでした。(『意味への渇き―宗教表象の記号学的考察』)この本のポイントの一つを私なりに簡単に説明すると以下のようになると思います(武田先生、間違っていれば訂正してください)。

  普遍宗教と呼ばれている宗教には、超越性原理(普遍性原理)が備わっている。仏教なら「慈悲」とかキリスト教なら「愛」とかいうものだと思います。竹内先 生は、もっと精緻に分析しています。そのような超越性原理は、平等思想や人権思想の根拠となり、社会の民主化や反戦平和思想にまで及び、また、超越的普遍 者をもち、超越的で普遍的な(信仰)対象を持つことによって、現世の一切を存在論的にも価値論的にも相対化してしまう視点を形成できると言っています。「愛とか慈悲のような超越性原理」を否定する存在や価値があれば、徹底的に批判し闘うということだと思います。そのような普遍宗教を竹内先生は、非常に評価して いたと思います。神道のような宗教には、そのような力は望めないわけです。

 イントロはそろそろ終わりにして、武田先生の宗教観について、また個人の主観性との関係にまで踏み込んで順次お話して頂ければ、たいへん幸いです。

内田卓志

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 内田さん、デューイの教育論、整理して示して頂き、ありがとうございます。
わたしも「プラグマティズムの哲学者であり社会思想家で教育者でもあるデューイ」を学生時代に読み、優れた思想家だと感心しました。

 わたしは、私塾というたぶん日本的な伝統の方法でこどもたちと、また成人者との交わりをしてきましたので、デューイとは直接には関係しないのですが、彼の教育思想と実験教育が戦後日本の民主教育の柱になったのはよく知っています。

 わたしの場合は、わたしの実存を基底としての教育なので、はるかに個人的です。実践は小さく、一人ひとりに相対するもので、いまの日本の状況では、「小ささこそが大切」との思いがあり始め、その理念と方針に従い40年間続けています。

 教育は人間の教育ですから、人間の存在論的事実を踏まえることが前提で、よい教育とは、幼子の示す赤裸々な人間性を愛すことから出発します。そのため教育への基本姿勢は自然と似てくるものと思います。特定の思想や理念に縛られず、一人ひとりのありのままの存在をよく知り、そこからその都度発想するわけです。原理は示せますが、個々に対応するマニュアルはないのです。

 

 では、本題の宗教についてです。

 わたしの場合は、何について考えるのも、私自身の赤裸々な生の現実からですので、宗教についても同じで、一般的宗教論ではなく、私の宗教への見方です。

 わたしの父は、浄土真宗の門徒で学生時代は檀家回りをしていました。植木等(後年クレージーキャッツの一員)と共に文京区の真浄寺で修行していたのです。祖父が僧侶でしたので。
しかし、父は、わたしに宗教や宗派のことなど何も話しませんでした。わたしも高校生まで無頓着で、たまたま野間宏の書いた『歎異抄』の解説本を読み、親鸞というのはなんと凄い人だと感嘆し、それを父に話すと、親鸞は自家の宗派の開祖だと言うのでビックリしたのでした。これでは笑い話ですね。

 わたしにとって宗教とは一つの思想であり、信じ込むこととは違いました。まして、人格をもった神が実在するという話は、荒唐無稽であり、それは物語の登場人物が実在すると信じることと同義で、長年の間、ほんとうにそんなことを信じている人がいるとは思っていませんでした。大学になり、キリスト教の信者は現代でもなお神が実在すると信じていることを知り、驚くと同時に呆れました。

 哲学徒であるわたしは、人間の生き方や生きる意味を、自分の頭でよく考えてだんだんと確かで豊かなものにしてきましたので、教典・経典を読んで覚えたり、信じたりすることとは無縁でした。どのような書物も自分の経験を踏まえて自分の頭で考えるための手段であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。だから、後年、プラトンによるソクラテスの対話編『パイドロス』を読み、文字は死んだ言葉であり、いま話される問答こそ生きた言葉であって、それがフィロソフィー(哲学・正しい訳語は「恋知」)だという主張にとても感心したのでした。

 宇宙の仕組みが次第に明らかになり、生命の誕生や進化が化学的にも解明されてきた後でなお、どこかに人格をもった神がいて、すべてを見ている、とか人間や宇宙のありようは神の計画だとかいう話は、あまりにも愚かしく子ども騙しでしかありませんから、そういう類の話はなしにして次に進もうと思いますが、いかがでしょうか?

 起源後400年にキリスト教徒たちによって惨殺された女性教師(フィロソファー・天文学者・数学者)のヒュパティアの言葉はじつに見事です。

「形式を整えた宗教は、すべて人を惑わせます。最終的に自己を尊重する人は、けっして受け入れてはなりません。」

神話、迷信、奇跡は、空想や詩として教えるべきです。それらを真実として教えるのは、とても恐ろしいことです。子どもは、いったん受け入れてしまうと、そこから抜け出すことは容易ではないのです。そして、人は信じ込まされたもののために戦うのです。」(英文からの翻訳は武田)


 

   最後に、竹内芳郎氏の「超越性の原理」についてお応えします。

   世俗の損得や利害という価値、また、有名人であることや収入が多いことなど、いわゆる「世俗の価値」に縛られずに真実を探求すること・善美への憧れをもつことは、子どもも、というより子どもや青年ほどよくしています。

   それを竹内芳郎氏のように、世俗の価値を超越した価値=「超越性の原理」をもっているからだ、というのは、結果からみればその通りなのですが、それを氏が主張するように「超越性の原理をもたねばならない」とすると、特定の思想的装置になるでしょう。ロマンや理念の世界は、世俗の価値とは切れた別世界と表象されるわけです。

    わたしは、よき世界への憧憬はこの世俗の世界の只中にあり、真実の探求や善美への憧れ(竹内氏のいう超越性)は、日常生活の中に根を張るものと思います。生活世界の中に世俗の価値に縛られない価値は存在する、と見るのです。生活世界の外に「よき見方」があるのではなく、生活世界の中の「或る領域」にそれらはあると考えるのです。

    善美への憧れや真実の探求は、世俗の価値を否定するのではなく、それらを包んでより普遍性の大きな価値に引き上げていく営みだ、とするのが武田思想の中核です。世俗の価値を「否定」するのではなく「対立」することで、世俗の世界に意味と価値=光を与えるのです。その光がなければ、世俗とは暗闇にすぎません。そうなれば、善美と世俗の価値の領域は両方とも成立せず、ただ無自覚に流れゆく惰性世界があるだけとなります。

    竹内氏の「超越性の原理を持て、」という考え方・言葉は、フィロソフィーを「一神教化」してしまうので、とても不味いと思います。以前に書きましたように、フィロソフィーとは【超越的真理】を求めるものではなく、また【世俗の価値】に従うことでもなく、みなが深く納得できる【普遍的な考え方】を提示する普段の努力です。自問自答と問答的対話によりだんだんと優れた見方をつくる作業だ、というのがわたしの基本思想です。

 

武田康弘

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