思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

愚かな紀元節、天皇現人神思想に懲りない自民党という戦前思想政党。今日2月11日はその象徴日。

2016-02-11 | 学芸

以下は、3年前の今日、建国記念日(愚かな紀元節復活の日)に書いた文章の一部です。採録します。

 時間・歴史をも天皇教に合致させるというのが「紀元節」ですが、明治5年(1872年)に、神武天皇が即位したとされる2月11日(太陽暦換算)を紀元節の祝日とし、西暦より660年も古いことを誇りました。世界の中心は日本の天皇である。という思想は、田辺元(天皇制は宇宙の原理と合致する)や西田幾太郎(国体は、皇室を中心にリズミカルに統一されてきた)という戦前を代表する哲学教授たちが主張し広められましたが、紀元節と共に戦後は一旦は廃止されました。しかし、1967年に多くの反対を押し切って佐藤自民党内閣は2月11日を建国記念の日として祝日とし、「紀元節」復活に道をつけました。ここには、自民党など保守派政治家の根深い「天皇教」への思いがあらわれていますが、これは「靖国神社」を敬愛することと軸を一にしているのです。

  自民党は、現『日本国憲法』を廃棄して新たな憲法をつくることを「党の約束」としています。それは、彼らが天皇教を引きずる国体思想から抜けられないことをあらわしています。安倍首相は、自著『美しい国へ』で「日本の歴史は、天皇を縦糸として織られてきた長大なタペストリーで、日本の国柄をあらわす根幹が天皇制である。」と述べていますが、これは、《人間存在の対等性に基づき、互いの自由を承認し合うことでつくられるルール社会》という近代民主主義の原則とは明らかに矛盾します。

   「歴史的に天皇が中心の時代があった」というのではなく、市民社会が成立した後の現代もなお「天皇制が国の根幹である」としたのでは、「おじさん、勝手に言ってれば~~」の世界でしかありませんが、どうも「哲学の貧困」(哲学という衒学を講ずる教授はいるが、各自が自分の頭で考えることがない)のわが国では、このような国体思想が跋扈(ばっこ・のさばり、はびこること)してしまうので危険です。

   なお、ここで注意しなければならないのは、明治からの天皇制とは、伊藤博文が中心となってつくった近代天皇制=天皇教のことであり、それ以前の日本の歴史・伝統とは大きく異なるということです。
   明治政府は、皇室独自の儀式に拠る「皇室神道」と「神社神道」を直結させて新たな政治神道国家神道をつくったのですが、これは、日本古来の八百万の神=「多神教」を、天皇を現人神とする「一神教」に変えてしまい、祭司にすぎなかった天皇が現人神(あらひとがみ)となったのですから、ビックリ仰天!というほかありません。敵・味方の区別なく祀るという神道の教義も、味方だけを祀ると変更。なんとも強引な宗教改革ですが、これを官僚政府が政治権力を用いて徹底させたのですから驚きです。いまなお、わたしたち日本人が「私」からはじまる思想を恐れ、既成の枠組みに縛られて主観性の知を育てられずに受験知や事実学だけを貯め込み、また「餅は餅屋」と小さく固まってしまう生き方になるのも頷(うなず)けます。北朝鮮の比ではありません。支配者は将軍ではなく現人神だったのですから。

昭和天皇の裕仁
昭和天皇の裕仁・1945年敗戦時、
マッカーサーと並んだ写真の一部

 誰もが知る通り、太平洋戦争での敗戦により、一旦はこの天皇教は明確に否定されました。1946年に天皇の裕仁は、「天皇を現人神とし、日本民族を他の民族に優越するものというのは誤り」とし、天皇は人間であるとするいわゆる「人間宣言」を出しましたが、こんな珍妙な宣言をせざるをえないまでにわが日本人の意識は深く犯されてきたわけです。
   皇室の祭祀と政治を直結させていた天皇の祭祀大権は、『日本国憲法』の誕生により否定され、皇室祭祀は完全に天皇家の【私事】となりました。第5条―天皇は国政に関する権能を有しない。第20条―国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。
   けれども、天皇家と国家とを結びつけることで日本国は成立すると考える保守的な政治家は、「天皇の男系DNAを守れ!」との言に象徴されるように敗戦による大改革を反故(ほご)にすることに激しい情熱を燃やし、既成事実の積み重ねにより成し崩し的に天皇教を復活させようとしてきたのです。
   いまに至る戦後の有力政治家の大部分は、戦前の権力者たちの子孫ですが、それにしても、敗戦による新しい日本を「戦後レジーム(体制)」と否定的に捉え、これを終わらせることを最大の使命だとする首相が現れるまでになったのですから、先祖返りもいいところです。

   では、次に、天皇教は私たち日本人にどのように作用しているかを書きましょう。

   国の近代化のために、キリスト教のかわりに天皇教を用いたことは、「私」を消去してしまい、底しれぬ「精神の不幸」からの脱出を困難にしている、とわたしは見ていますが、聖書に象徴される豊かな内容をもつキリスト教とは逆に、まったく内容のない宗教である天皇教(教典すらなく、型・儀式だけがある)は、日本人の無意識領域までも犯しているために、これを顕在化させるのはなかなか大変です。

(注)ただし、わたしは、神が世界をつくったとか人間の原罪とかを主張するキリスト教をよいものとは全く考えていません(人間性の肯定と善美へのあこがれというソクラテス出自のフィロソフィを歪めた宗教が一神教です)。


武田康弘

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