思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

武田フィロソフィへのインタビュー(11)   内田卓志

2016-02-22 | 恋知(哲学)

  武田フィロソフィへのインタビュー(11)   内田卓志

 

 「 思想や哲学の中心・本体は、未来に向かう精神から生まれる知的営みで、飛翔するイマジネーションによる思考にある。その活動や働きは、ストレートに知的である。」
 ーー何だか、サルトルを想い出すような感じです。サルトルは、かっこよかったですね。

 プラグマティティストである武田先生は、そのような思考の実践活動として、白樺教育館を立ち上げ、運営してこられたのですね。「思考は行為の一段階である」ということでしょう。

 そこで、ストレートに伺います。私たちは、毎日毎日、考えそして行為しています。
それが生活であり、人生があります。人によって濃淡はあるでしょう。ただ、私のような市民が、フィロソフィーに望むことは、
如何に生活や仕事や人生にフィロソフィーをフィロソフィー的な思考を活用できるのかということです。飛翔するイマジネーションによる思考、というと私にはちょっと難しいように感じてしまいます。
また、先生がよくいわれる問題、「イメージやイマジネーションが先にあり言語が先にあるのではない」

 人間の認識に関わる問題と思いますので、簡単に説明いただけますか?

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 内田さん、問題が核心に迫りました。お応えします。 


 白紙に戻して見る、大元を探る、「〇〇とは何か」を知ろうとする、というのは、人間がみな持っている知的好奇心で、それがフィロソフィですから、
解き方だけ知ればよい、とか、丸覚えでその場を乗り切ろうというのではなく、「考えてみよう」「意味をつかもう」とする頭の使い方は、フィロソフィです。

 それは、内田さんの言われる通り誰でもしていることですが、フィロソフィとは、それを自覚してするだけのことです。それをしないでまるでオートメーションのような頭の用い方をすることも多々ありますが、いったんストップをかけて元に戻して考える習慣をもつ人は、豊かな世界を生きることができて「得」をするし、それは「徳」につながっている、と思います。

 今までの既成の見方や価値観に囚われることが減り、頭が自由に動き、言葉と行為に幅と深みと面白味がでるのですから、どうころんでも生活に仕事に自ずと役立つのではないでしょうか。わたしの人生はわたしにそう教えます。まさに「未来へと向かうイマジネーションによる思考」です。

 しかし、ふつう、哲学と言えば、固い・重い・暗いというイメージをもたれることが多いです。なぜでしょうか。考えたり意味をつかもうというのが特別なことで、重苦しいイメージとなるとは不思議なことです。

 それは、古代アテネでは、フィロソフィは、エロース=恋愛をキーワードにしていたのに(プラトンがつくった学園「アカデメイア」の主祭神はエロースでした)、それを後のキリスト教が「エロース」を邪なものと考え、人間は原罪を負っている存在とし、「アガペー」という神への愛が大切だとしたことに起因しています。
 キリスト教のローマは、フィロソフィを禁止し(「アカデメイア」は廃校)かわりにキリスト教神学によるスコラ哲学をつくりましたが、16世紀にはじまる近代哲学はスコラ哲学の改革ですので、キリスト教への信仰と理性的な人間精神の探求の無理な統一をはかることになったのです。
 日本も明治になり、西ヨーロッパの近代哲学を直輸入にしたので、フィロソフィ=恋知は、固く重く難解なテツガク=哲学となっています。そこからの脱出が必要だというのが、わたしの考えであり主張です。

 

 イマジネーションについてのお尋ねですが、
それは、幼子を見ればよく分かります。言葉が使えない1歳の子は、感動的としか言い得ないスピードで日々、世界(自分を取り巻くもの)を認識します。
その認識は、感覚とイメージに基づいています。それが先行していて、膨らんだイメージによる認識は、2才ころから言葉を観念の道具として用い出すことで明確になるのです。言葉を魔法のアイテムのように使います。

 だから、わたしたち大人も、出来合いの言語がつくる意味とイメージに囚われすに、世界を言葉の介在なしに直接見る練習が必要です。いわば始源ー白紙に戻して世界を感じ知ろうとするのです。街中でも自然の中でも芸術作品を見たり聴いたり触れたりする中でも、言葉を介在させずに、そのまま見る・聴く・感じるのです。そういう練習がとても大切で、それを意識して行うことがフィロソフィの基盤となります。言葉で明確化された認識を、再び始源に戻してみるわけです。

「飛翔するイマジネーション」とはそういうことで、特別な話ではありません。大人が幼児の思考を取り戻す作業を意識的にしてみる、というわけです。

 
 最後に逆質問ですが、内田さんは、わたしをプラグマティストと規定しますが、そうなのですか?
哲学という科目に囚われないで、自らの具体的な経験に基づき、自由に本質的に思考する、世俗の権力や権威とは無縁に思考する、誰も何も特別視せずに堂々と思考する、というのがわたしのフィロソフィなので、それをわたしは「恋知」と名付けていますが、「プラグマティスト」という規定でよいのでしょうか。
 

武田康弘

 

2月7日(日)ソクラテス教室40周年会で
内田卓志 武田康弘

コメント
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