思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

プラグマティスト 現象学 フィロソフィの方法と本質 ・・・内田卓志⇔武田康弘

2016-03-08 | 恋知(哲学)


武田先生

 社会と政治の前に回答と現象学のことをちょっと質問をします。
  ちょっと長くなりました。よろしくお願いします。
  ...
以下回答と質問です。

 まず、私へのご質問からお答えします。私が、プラグマティストといっている人は、先生が主張されているフィロソフィ、そのようなフィロソフィをする人、行う人のことを個人的に広義に解釈してそう呼んでいます。

 ご存知のように、一般的には、哲学史でいうところの「プラグマティズム」の哲学者、パースやジェイムズやデューイらを代表的なプラグマティストといっています。
  また、プラグマティズムという言葉が、ギリシャ語に由来しており、パースは、カントを学び、そこからつくった概念だとか本には書いてあります。
  プラグマティズムでは、「思考は行為の一段階である」と考えます。思考だけでは不十分です。「行為する・活動する」ことが大切です。私は、「フロソフィする」こととして、具体的な経験の場面で、思考の作用が何らかの行為や働きとなって表れてくることを強調したいと思います。

 以上の意味で私にとって武田先生は、正に「プラグマティスト」です。武田先生は、皆さんが認めるように、ダイナミックな方ですよね。よって、私の中でのプラグマティストとは、ジェイムズやディーイを学んでいるとか、その学説を支持する人などの意味ではないのです。

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 そして、盛りだくさんのご回答を頂きありがとうございます。キリスト教やスコラ哲学までも触れて頂きました。

 白紙に戻して見る、大元を探る。そうすれば今までの既成の見方や価値観 に囚われることが減り、頭が自由に動き、言葉と行為に幅と深みと面白味がでる。生活に仕事に自ずと役立つ、それが先生のおっしゃるフィロソフィですね。

 事物を白紙に戻して見る方法にも言及されました。それは、感覚とイメージによる認識といわれます。ーーー「出来合いの言語がつくる意味とイメージに囚われずに、世界を言葉の介在なしに直接見る練習が必要です。いわば始源―白紙に戻して世界 を感じ知ろうとするのです。街中でも自然の中でも芸術作品を見たり聴いたり触れたりする中でも、言葉を介在させずに、そのまま見る・ 聴く・感じるのです。そういう練習がとても大切で、それを意識して行うことがフィロソフィの基盤となります。」(武田)
  
  以上のようなことは、大人の私にとっては難しいことです。先生がいわれるように、大人が幼児の思考を取り戻す作業を意識的にしてみること、練習してみることは、まことに必要なことと思います。 

 私は、美術館や博物館で芸術作品を見たとき、その作家の名前で作品の価値を判断していないか? 私は、コンサートに行き音楽を聴いたとき、その演奏の良し悪しを演奏者の社会的評価で判断していないか?日常の生活で、無意識に色眼鏡をかけて人を見ながら、その場その場の出来事に対応していないか?新しい仕事に携わりチャレンジが必要な時に、必要以上に過去の慣習に囚われていないか?

 先生のいわれるように行為してみると、日常の生活に仕事に、具体的なレベルでどのように役立つのか、その実感は正直いって今はありません。直感的に、必要な行為だと分かります。意識して、練習してみましょう。ただ、この練習は毎日毎日絶え間なく行っていく行為です。大人の私は、言葉の世界にどっぷりと浸かって生きています。きっと練習の成果として、事象を白紙の気持ちで真正面から見ることが可能になるでしょう。その行為が、常に反射となって習慣化、日常化したとき世界が変わって見えるかもしれません。

 私は、武田フィロソフィによって、生活の具体的経験の場における対象への見方や振る舞い方を学びます。地味な行為と思いますが、積み重ねて行くしかないでしょうね。このような方法論的な話は、大学の哲学の授業では聴けないし、哲学の本にも書いていません。

 先日白樺教育館へ行きました。30年以上前から武田フィロソフィと共に歩んだ方々とお会いしました。なぜそんなにも長い間、フィロソフィを介して交際ができるのだろうと素朴に思います。そこに武田フィロソフィの秘密があるのでしょう。

 伺ったことに関連してちょっと伺います。私は、このような認識方法をもちいるとき、現象学の難解な論理を具体的な経験や現実の生活の場に、活かしいくことに繋がると思いました。私は、現象学についてほとんど分からないのですが、そう直感しました。武田先生は、現象学との関係でどのように考えておいででしょうか。

内田卓志

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内田さん
  はじめに、現象学へのご質問にお応えします。

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 青白く見える、ギーギーという音が聞こえる、ベタベタしている、というような、直接的に与えられる感覚所与を「内在」と呼びます。
それは、わたしにとって動かしがたい 感覚ですので、それを疑うことはできません。内在として与えられたものは、認識の究極の基盤です。
青白く見えたものを、別の場所で見た ら紫色に見えた、ということはありますが、その時にそのように見えたという感覚=内在的知覚は絶対です。
  
 その内在としての知覚こそあるゆる人間認識の最後の拠り所であることの自覚、それが現象学の核心であり、認識論の原理中の原理です。
 
具体的な事物、例えば、机とかカバン という認識は、それがもしかすると机やカバンとしてつくられたものでない可能性が残りますので、「疑える」のですが、内在として与えられた感覚与件は「疑うことに意味がない」=疑えないのです。

 これがフッサール著「イデーン」Ⅰー 1(みすず書房刊)の第2章46「内在的知覚には疑わしさがないこと、超越的知覚には疑わしさがあること」の意味です(超越的知覚とは、机やカバンという認識のこと)。

 
 この簡明な認識論の原理(「内在」)を明晰にすること=深く自覚することが、フィロソフィの最大の眼目だとわたしは考えてきました(20数年前の小論文に記載)。

 なぜなら、幼いころから記号(数字や言語)の操作を優先する学習を強いられると(現代の「優秀者」にはそのような人が多い)、内在としての知覚が希薄になり(そのことを本人は自覚しない)、認識は、人間の健全性や有用性から離れてしまいます。数字や言語が先立つ紋切型となるからです。しかも「記号ないし言語至上主義」という歪みを自覚できずに、それが却って己の優秀さの証だとさえ信じ込みます(いわゆる「東大病」)。

 これは心身全体での会得=五感をフルに用いての健全な認識と対極です。観念主義=様式主義=型ハマリ=デジタル的な白と黒という認識を「正しい」「優れている」と思い込むのですから、とても困った「現代の病」といえます。

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 まず、なぜフッサールの認識の原理論(現象学)を自覚することが大切なのかにお応えしました。フィロソフィの原理(=土台)である認識論を明晰化するのはフィロソフィ(人間が物事を元から考えること)の前提ですので。
 次に、ご回答とご質問の全体についてまとめてお応えします。
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 もともとフィロソフィとは、持ち運べるような「真理」の体系ではなく、元に戻して(幼児の目で)世界を見直すという実践をさしますので、生活世界の中で有用に考える実践をするという意味では、【プラグマティズム】と言えるでしょうし、また、どこまでも「私」の内在から世界を見、知るのですから、【超越論主義】(フッサール現象学)とも言えますし、「私」の意識を原理とするのですから【実存主義】とも言えますし、無意識領域までも意識化しようとするのですから【構造主義】とも言えます。
  また、「私」の想像力に基づく思考を基底に置くのですから、必ず「個人」という概念を必要としますので【個人主義】でもありますし、それを可能にするには民主的社会(互いを対等な存在と見なし自由を相互に尊重し合う社会)を要請しますから、【民主主義】者でなくてはなりません。

 いま、強調するためにあえて、〇〇主義、とか〇〇主義者と書きましが、ほんとうは、フィロソフィと、「主義」や「宗教」は相いれませんので、「主義」ではなく「論」と言うのがよいのです。特定の見方や立場に囚われずに、柔軟で自由な見方がフィロソフィの本質ですから、特定の政治思想、例えば、明治政府がつくった靖国主義を前提にする思想とは次元を異にしますし、靖国主義のようなアナクロニズムでなく、進歩的と思われる思想にしても、それを「主義」として固定してしまえばフィロソフィとは言えません。フィロソフィは政治運動でも宗教運動でもなく、「私」が自他の人間性を肯定して内からの悦びや輝きをもって生きるために必要な最も人間的な営みだ、とわたしは思いますので、わたしは自覚的なフィロソファーであり、同じことですが、恋知者です。

 というわけですから、フィロソフィとは、ある意味では確かに内田さんの言われる通り、「地味な」行為=活動でしょう。しかし、その地味な営為は、「すべての有を支える無」とも言えますし、根源的な問い=フィロソフィなくしては、どのような人間の活動も意味を持たない=意味付かないのですから、すべてを支える大地であり、すべてを包む海であり、すべてを輝かす太陽でもある、と思います。人間が人間として生きる(特定の職業人としてではなく、特定の宗教者としてではなく、特定の主義者としてでもなく)ためには、何よりも必要な営みではないでしょうか。

 「日本にフィロソフィなし」と言われますが、それは、残念で、危険で、愚かで、不幸なことです。


 

 武田康弘 3月8日 

 

 

コメント
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