毎日毎日、ニュースや社会解説番組で、何百回も繰り返される「国は」「国対住民」「国側勝訴・敗訴」、国、国、国。
ここまでウソというより詐術の言葉を繰り返すマスコミ関係者、あるいは、評論家は、【国語科の学習・社会科の学習】の内容を身に付けているのでしょうか?
大学入学試験に合格しても何も分からない=丸覚えとパターンの刷り込みだけで、ほんとうのことは何も知らない人だらけのようですね。
もしそうでないなら、明治維新の末裔(主に長州藩の下級武士たち)とその従属者である今の政府関係たちに脅されて、あるいは誘導されてそう言っているのでしょうか?
国は、ではなく、 政府は、あるいは官邸は、であり、または、通産省が、財務省が、文科省が、です。
いまの政府の意思に過ぎないものを、国は、という。いまの官邸の意向でしかないものを、国が、という。官僚たちの集合意志=惰性態でしかないものを、国側は、という。
現在の日本国は、主権者を市民=国民とする民主政なのではないのですか(憲法第一条にある通り、天皇は象徴であり、その地位は、主権の存する日本国民の意志に基づくのです)。
明治天皇所持の伊藤博文の写真(宮内庁が公表)
憲法作成者の伊藤博文は、大日本帝国憲法は、天皇から恩寵として臣民に与えられるものであり、「主権が国民に変わることは永久にない」と教説)
無条件降伏による敗戦までの明治憲法(大日本帝国憲法)では、主権は天皇にあったのですから、民主政の前提である「人民主権」とは異なりましたが、現憲法では、主権者(国家権力の源泉)は、わたしやあなた=国民にあるのです。小学校の教科書に記載されている通りです。これは、原理・原則です。明治以降の「天皇という名を利用した官僚政府」にあるのではありません。
主権者を天皇から国民への大転回をはたしてから70年経ちますが、いまだに、政府や官邸の意思を、国の意思だと言う!!!????もう、これは、低脳か詐欺のどちらでしかありません。「上官の命令は国イコール天皇の命令である」という戦前思想は終わったのではないのでしょうか。
きちんと言葉を使わないで、政府・官邸の意思や官僚組織の都合のことを「国」と呼んだのでは、政府批判も官僚批判もできなくなります。「おい、お前、【国】に逆らう気かなのか!」(これは、自民党の桜田衆議院議員が、我孫子の一市民にみなの前で言った言葉です)。
国という言葉には、大きく3つの意味があります。わざとごちゃ混ぜにして、政府の方針への批判をしにくくする詐術はもういい加減にやめなければいけません。
国の主人公は、わたしでありあなたです。国は、わたしとあなたの意思とお金を出し合ってつくるものです(それが「社会契約」の意味本質)。わたしとあなた=公共の意思とは別に国家権力があり、公共の意思に逆らう国家権力がある、というのならば、言うまでもなくその権力は正当性を持ちません。
それにしても、ある特定の考え方や政策を、「国」の方針だと言い、まるで、国という生物あるいは物体が存在するかのように錯覚させるというのは、北朝鮮も真っ青な恐るべき詐術というほかありません。
マスコミ関係者や官僚政府のみなさん、これからもまだ詐欺の言葉を使い続けるのですか? もし良心があるなら、変えなさい。
武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員=日本国憲法の哲学的土台を講義)
☆簡潔なまとめを記します。
主権者を人民(民衆・民・市民・国民)とする社会を民主政社会とよびますが、民主政社会における国(国家)とは、主権者であるあなたやわたしの意思(これを「一般意思」といいます)により、つくるシステム(制度・組織・体系・体制)のことであり、それ以外ではありません。...
政治レベルで話題となる「国」または「国家」というのは、自立した一人ひとりの考え(一般意思)とお金(税金)によりつくるシステムのことです。国という実体がどこかにあるのではなく、国とはシステムのことで、それ以外ではありません。
政治レベルの話とは異なる、言語とか歴史とか生活習慣という意味での国は、ネーションであり、それは文化的レベルでの話です。また、故郷という意味での国は、カントリーで、気候風土など自然レベルの話です。
政治レベルにおては、責任の所在を明確にすることが何より重要ですから、きちんと、政府は、官邸は、○○省では、と言わなくてはいけないのです。国は、という曖昧な言い方は、騙しの言語にしかなりませんし、問題の所在を不分明にする詐術になります。それは犯罪行為とさえ言えます。心しましょう。
政治レベルの話でしかないもの=国のありようについての特定の見方や主張や解釈に、文化や風土レベルの話ダブらせて、まるで日本という実体(物)が存在するかのように思わせるというのは、極めて悪質な占脳ー染脳です。それにより、人々の自由な意識を縛り、特定のニッポン主義の思想に気づかれぬように誘導するわけです。
これは、明治の維新政府以来続く日本の悪しき「伝統」で、国体思想とよびますが、まさにシステムを実体化させてしまうのですから、「国体」です。政治的なレベルの国(政府の思想)が、体になり固定化されて惰性態となるのです。個々人の自由を元から奪う恐ろしい思想です。
武田康弘