(写真は交響曲のみ)
ショスタコーヴィチの音楽は、社会主義リアリズムに基づく音楽ではないが、神や宗教の音楽でもなく、自然の音楽でもない。 彼の音楽は、個人の音楽だ。それは、理想的な人間性という麗しきお話ではなく、赤裸々な「私」の開示=「個人」のドラマである。悪しき思想と社会の状況を引き受ける個人の感情と意思と想念が発する声だ。
「私」の内面世界を大胆なまでに肯定し主張するショスタコーヴィチの音楽は、なにものにも侵されない「個人」の偉大さを露わにする。
わたしは、彼の音楽を「20世紀の抒情性」と呼ぶが、それは、たとえ暴力と圧政が去っても、管理の網の目で「個人」が消去される現代に生きる人間の人間的な叫びであり、通常の意味での勝利を超えた≪底知れぬ勝利≫である。ショスタコーヴィチの音楽は、個人こそが最後の拠り所であることの鮮やかな提示であり開示なのだ。
ユーモアを超えた嘲笑、
シリアスな皮肉、
悲劇を喜劇にもする精神の強靭、
叩きのめすような強さ、巨大な力、
弱音の支配、
相反する感情の交錯、
前進と後戻り、
錯綜とシンプル、
勇猛果敢な挑戦と停滞。
不条理と暴力の支配に超然として立ち向かうかと思えば、
動かしがたい状況の中で苦悶に沈む。
左右の全体主義の前に無力な個人、呆然と立ち尽くし、何もできない個人。しかし、状況に決して埋もれない個人、誇り高き個人。
どこまでも人間味に溢れ、負けない【個人】こそは、この世界の闇を煌々と照らす輝ける存在だ。個人の前に、悪しき権力は牙を抜かれ、個人の前に、絶対神は退散する。
古代、必然の神アナンケが支配する暗黒の厳禁世界を変えたのは、アナンケを打ち破った恋愛の神エロースであった(プラトン「饗宴」)。恋愛の感情は、個人の象徴であり代名詞である。
わたしは、21世紀を個人の世紀としたい。新たな革命とは、個人の価値に目覚めること、「個人の宇宙」を超えた世界など存在しないことの大胆な宣言である。
われわれは20世紀の偉大な交響曲を二つもっている、異なる状況と視点から「個人」を謳ったマーラーとショスタコーヴィチだ。 もちろん、個人の多面的な感情世界を肯定し表し、大胆なまでに内面の思想と良心についた先駆者にして偉大な金字塔を打ち立てたのはベートーヴェンだが。
武田康弘