思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

自己存在についての「悟り」とはどういうことか。対象化できないのが主体としての人間。

2017-01-04 | 教育

 以下は、土曜日の今年最初の「大学クラス」(いま『ブッダと親鸞』を使って授業をしている)のために書きました。


  自己存在についての「悟り」とはどういうことか。対象化できないのが主体としての人間。


 人間は、誰であれ、自分の意識の内で生きています。当然ですが、意識の外に出ることはできません。まず、ここを明晰に自覚しないと、人間がいかに生きるかのがよいかを考えるための「はじめの一歩が」はじまりません。 

 それを確認して、いきなり核心です。

 わたし(人間)が物事を知るのは、意識の対象物としての分析によります。それがどのような物事なのかは、わたしの関心(好奇心)や必要に結びつけて知ります。それがどのような意味を持つかは、最後は必ずわたしの関心欲望と言っても同じ)に結び付けられます。

 だから、わたしが、わたし自身の生の意味や価値を知ろうとするのは、わたしを対象として分析して知ろうという構えになります。それが物事を知る方法だからです。しかし、ここにとんでもない落とし穴があるのです。

 物事を知るのは、わたしという主体の営みですが、わたしを知るのに、わたしを対象にしてしまうと、それは何の為であるか、何を目がけるのか、は、位置付かなくなります。もしも、人間をつくったのが神という超越者であるならば、神の関心(好奇心)や必要のためだと言えますが、そうなれば、その神の認識(この場合は人間存在)は、何の為であり、何を目がけるのか、という問いが立てられてしまい、無限連鎖になります。言葉の遊びレベルの話で、やってられない(笑)。

 話を戻します。

 わたし自身の生の価値や意味は、客観的に規定することは不可能で、わたし自身の主観による規定と決定以外にはありえません。もちろん、その主観の認識価値を肯定できる条件は、広い意味で「他者による承認」が大きなウエイトを占めますが、その他者承認とは、今いる他者とは限らずに、過去やそれ以上に未来の他者でもあります(しかも人間だけとは限らない)。もちろん、その他者からの承認が得られているという想いもわたしの主観によるのであり、決して客観と言われる認識ではありません。わたしは、自分の意識の内で生きているのですから、わたしの主観を価値あるものと見るのは、わたし以外の何者でもなく、このわたしです。

 わたしの存在のありよう、その意味や価値について、対象として分析して知るという営みは意味がない、というより、原理上成り立たないのです。それを最初に見切った(悟った)のは、知られる限り、ブッタであり、ソクラテスでした。わたしの存在のありよう、その意味と価値については対象分析が不可能であるのですが、その不可能事を可能だと思う錯誤により、人間の生にまつわる悲喜劇が引き起こされます。

 わたし自身を知りたいという欲求は、誰でもが強く持ち、切実な問題として意識されますが、その知るという意味と方法が、物事を知ることと、主体者であるわたし自身を知ることでは、まるで異なることを知らないと、「出口なし」の地獄になります。精神分析学の不毛性はこの原理的次元での逆立ちにあることを自覚しないと、「はじめの一歩」が歩みだせないのです。

 わたしの存在は、追いかければ、つかまらず逃げてしまいます。存在は、遠くを見る視点により「想う」ことができるだけなのです。掬い取るようにゆっくりと静かに持ちあげるのです。理論は一切通用しません。日々の営みから得られる直観の作用により、何気なく知られるもので、他者や世間などを考慮することなく、存在の声を聞く柔らかで自由な心がないと、得られないのです。心身全体から力が抜け、固い言語的思考から解放されたとき、意識に現れ出るのがわたしの存在です。幼子は誰でもできていることですが、言葉を操ることができるようになると、自覚的に嘘をつく遊びを超えて、自己欺瞞(他者から承認されようとして自分に自分で嘘をつく)が常態化してしまいます。しかし、本人はそれに気づかず、大人になったと思います。言葉で自己の存在を説明できると思い込みます。それはあり得ないことなのですが、ほとんどの大人はそれを知りません。言語化できないイメージの世界に現れ出るのがわたしの存在の姿ですので、きちんと規定することは不可能です。

対象物を見るようには決して知れないのがわたしの存在であり、それはイメージとして現れ出るだけなのです。

 したがって、人間としてのわたしの生き方の問題は、
わたしの意識が向かう先が何であり、わたしの関心や欲望の質が量がどうであるのか、という点にのみあり、それはわたしの主観のみが良否の判断を下すことのできる領域です。誰もみな「唯我独尊」として生まれてきたというブッダの中心思想は、このことの見切りによっています。自己を知るために、他者と比べる=第三者的な目で判定するということをほぼすべての人がしていますが(これを読んでいるあなたも)、それは、根本的に誤まりなのです。一人ひとりが絶対であり、比較が成立しないのが人間存在であることを知らないと、人間の生は永遠に不幸です。

 ブッダの次の言葉は鍵です。

839「マーガンティヤよ、『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたしは説かない。『教義がなくとも、学問がなくとも、知識がなくとも、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならなぬ。

842『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、-かれはその思いによって論争するであろう。しかしその三種に関して動揺しない人、-かれには『等しい』とか『すぐれている』とか、という思いは存在しない。


武田康弘(2017年1月4日)

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