わたしがしみじみ感じるのは、わが日本人は、仕事をするのも活動をするのも趣味をするのもスポーツをするのも音楽をするのも美術をするのもレジャーをするのも、なんでも「勝つ」ためにしているということです。
外国の人が「生きる」ためにするし「楽しむ」ため「よろこび」のためにしていることを、日本人は「勝つ」ためにしている。自分が生きたいように生きるために「働く」のではなく、「勝つ」ために働きます。
なんでも競う、家を競う、クルマを競う、家財道具や電化製品を競う、こどもの成績を競う、運動部活、音楽部活で競う、点数で競う、資格で競う、会社名で競う、役職で競う・・・・・
「競争動物」として生きています。
生きる悦び、生きる楽しみ、エロースの生ではなく、「勝つ」ために生きているようです。勝てば官軍とも言います。明治維新は、「天皇現人神」(国家カルト教)の思想で日本人を「統一」しました。日本人の精神は、個々人がつくるそれぞれの宇宙=精神世界ではなく、日本主義(国体思想)を内面化すればよい、ということにされた為に、一人ひとりの独自の精神世界は貧弱となり、その分、技術知・専門知に特化した優秀者を排出してきました。個人の思想と哲学は元から消され、精神とは、天皇を頂く日本精神のことにされたのです。個人が思想をもつことは邪なことで、日本人は、天皇が象徴する日本文化の思想に従えばよいことになりました。個人の宇宙は、日本主義の下に置かれることになり、ブッダの誰もが「唯我独尊」として生まれてきたという根本思想は消されました。個人の価値が一番上にあり、国家などの集団は個人のために存在するというソクラテスのフィロソフィーや世界宗教は大元から消されて、日本人は、人間である前に日本人であることになりました。これが明治維新政府が拵(こし)らえたニッポン人の精神構造です。
その呪縛からの解放はまだまだ先のようにも思えますが、上記のことを明晰に自覚すれば、そのとき誰でもが直ちに「個人」になれます。安倍自民党政府の国体思想や日本会議や神社本庁らの「国家カルト宗教」がいかにオゾマシイか知れば、「個人」ということの偉大な価値が分かります。
人間は、勝つためではなく、よく生きるために、日々を生きるのです。
武田康弘
(説明文を追加します)
人間の人間的な生とは、《豊かな愛情に基づく善美への憧れと真実を探求する心》と同義ですが、そのよき生をうむための一つのアイテムが「競争」です。しかし、一つの手段に過ぎないものを目的にしてしまうと、すべてが狂っていきます。よき人間性とは離れて、不幸を再生産する愚かさの世界を生きることになります。
つまらない顔、情緒音痴の顔、貧相な顔、威張り顔、ずる賢い顔、尖り顔、醜い顔のまま一生を終えるのは、自他共に、不幸でしかありません。
生きるよろこびを生きましょう!