幼少期からみな、精一杯踊らされ、「他者承認」(ヘーゲルの概念)に怯え、競争を血肉化させられ、みな一緒の集団主義の中で青息吐息。新興宗教が流行るのも当然ですが、それらは、政治的にはウヨク的国家主義でしかなく、統一教会など多くは自民党の集票機関です。
戦前の「家族主義」を称揚する安倍首相以下のウヨク政治家は、同一の価値観を教育で刷り込むための「愛国心」教育をはじめています。「ナショナリズム」という精神の病が、どれほどの悪をもたらしたかは忘れ(消し)、再び国家主義の亡霊を復活させようと目論む長州藩の過激な下級武士の末裔たち。
東条英機や岸信介(安倍晋三の祖父)らの「鬼畜米英」のスローガンから「アメリカのポチ」路線に転換しながら、同じく明治政府(伊藤博文や山県有朋ら)の国体思想=靖国思想につき、自立する「個人」=シチズンシップに基ずく「市民」という概念を嫌い、ニッポン「国民」としての統合をめがけます。公(おおやけ=官僚政府)による公共(市民自治)の支配=民主政の心臓部を奪うおぞまし戦略です。
日々、追いまくられる余裕感のない生活、受験主義のパターン知の習得と部活主義の運動と器楽で「自分の頭を使って考える」力を元から奪い、成人すれば、世界一長い労働時間でしばることでフィロソフィーを不可能とし、官僚政府の権力機構がつくる壮大なウソの世界の中で生きるほかない地点に追い込む。
いまなによりも必要で一番大切なのは、臣民や国民としての人間(ただの人)ではなく、自由と責任意識をもつ手強い『個人』なのです。人間は、どういう状況にあろうとも「個人」なければ、大元から不幸です。いつまでも「人間を幸福にしない日本というシステム」を続けるのは愚かの極み。「公共悪」に過ぎないウヨク国家主義者の想念を元から断たないといけません。
日々の生活を見直し、状況と自己への明晰な意識を獲得し、私からはじまる人生を歩もうではありませんか。「恋知の生」です。
武田康弘