思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

1906年=漱石「坊ちゃん」 藤村「破戒」 伊藤左千夫「野菊の墓」 志賀直哉「天皇ノート」強い近代的自我意識は・・・・

2017-02-24 | 白樺文学館

 

まっすぐな自我と官僚的学校との衝突、痛快なアクション小説の「坊ちゃん」(夏目漱石)

社会的差別との闘い、実存的苦悩を抱えつつ乗り越える不退転の自我を描いた「破戒」(島崎藤村)

純粋な恋愛と社会通念による抑圧、個人の善美の実現の困難さをせつなく甘美に教える「野菊の墓」(伊藤左千夫)

明治政府がつくった天皇制という空しい思想と直哉の正直な自我、個人が消去される天皇主義のおぞましさを極めて率直に現した「天皇ノート」(志賀直哉)

すべて、近代の個人意識、自我の覚醒を軸としていますが、みな1906年=明治39年に出され(書かれ)たものです。現今の安倍内閣による教育改革、個人や自我の抑圧の思想=「教育勅語」称賛、愛国心教育への取り組みを見ると、明治の文豪たちが現した優れた思想との違いに驚きます。

アナクロニズムという以上に、退化してゆく愚かな精神を目の当たりにして、わたしは、日本という国の劣化、精神的退廃を深く感じざるを得ません。

ああ、110年前の文学者たちの輝かしい自我=個人は、この4年後には「大逆事件」=天皇制国家主義による怖ろしい弾圧がはじまり、冬の時代となりました。歴史は繰り返すで、再び、冬の時代=愛国主義で市民的自由が侵される時代へ、は冗談じゃないですよね。今度はわれわれ個人が国家主義に負けられません。子どもたちの自由を官府から守らないといけませんね。ぜひ、公共的(=市民的)連帯、みなで共に!

 


※この大逆事件(無実の幸徳秋水らが一日裁判で、即刻死刑)による冬の時代の始まりの年、1910年に、個性と個人の自由を謳う同人誌「白樺」が発刊され、柳宗悦、兼子は、保守政府と対峙し、朝鮮人との太い民間交流も成し遂げます。学習院の反逆児たちによる思想、宗教、教育、文学、美術、音楽の文化運動は、日本の人間復興(ルネサンス)となり、白樺山脈と言われるほどになったのです。彼らの【個人主義】は、その後、今日まで日本では右と左の全体主義・権威主義のために実現しませんでしたので、いまとても新鮮、未来を拓く思想です。

21世紀の白樺派は、「恋知」の生を広める運動が軸ですが、それは言葉の正しい意味での「個人主義」とも言えます。


武田康弘

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臣民の教育、国民主権の否定に立つ思想=『教育勅語』を民主政下で教えることは出来ません。

2017-02-24 | 学芸

 

「我が臣民 克(よ)く忠に、克(よ)く孝に、億兆心を一にして・・・・・・」(教育勅語) 勅語とは天皇が臣民に与える言葉

臣民とは、君主国において、君主の支配の対象となる人々を指し、明治憲法下において、天皇・皇公族以外の国民のことです。


民主政の根幹=原理とは、主権者を人民ないし国民とする自治政治のことで、民主主義社会では、それに反する思想を認めていません(主権者を君主としたり独裁政治を行う自由はなく、そのような公的言動は禁止されます)。

従って、『教育勅語』(明治天皇による言葉=勅語とされているもので、律動的で優れた文章に仕立てたのは、明治の文豪・島崎藤村です)を正しいものとして教えることは、民主政国家においては許されていません。

いま、格安土地疑惑の「森友学園」教育勅語の思想による教育は、民主政の否定となり、到底現代の民主政国家で許される範囲にありません。これほど明白な憲法違反もありませんが、それを認可する文部科学省の次元の低さは、論評以前であり、近代社会の常識さえ知らぬ官僚たちには呆れ返りますが、意味=本質を知らない受験知人間が「役立たず」であることは今に始まったことではありませんね(呆)。それを素晴らしい教育と言う安倍首相夫妻とは、なんなのか。


武田康弘(元 参議院行政監視委員会調査室・客員調査員=「日本国憲法の哲学的土台」を講義)

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