戦前の日本を紹介した『日本を知れ』(アメリカ映画)では、学校でのこどもたちの姿を映し、「日本には道徳はない、ただ目上の人に従うだけである」と説明されています。
「教育勅語」を暗唱し、規律正しい日本の学生を見て、「道徳は存在しない」と言われるのは、なぜだろう?と思われますか。
道徳とは、全体一致とは逆のことです。みな一緒が道徳ならば、北朝鮮の学校は一番道徳的です。権威者や権力者、上位者(社会的地位や年齢や)に従うのは、道徳とは異なり、人間が人間としての矜持(プライド)を失うことです。そこには、道徳はない、のです。
道徳は、一人ひとりの「私」が、自分のありのままの心を見つめることが「はじめの一歩」で、その私の心の自由がなければ、何も始まりません。自由に想い、自由に考え、自由に行為し、その自由の結果に責任を負おうとするのが、道徳のはじまりです。個人が「それぞれ独自の内面世界をもつ人間」として精神的自立を成し遂げようとするのが、道徳なのです。
したがって、大人が子どもに箇条書きの規範を覚えさせるというのは、その内容がいかなるものであれ、反道徳にしかなりません。一人ひとりの精神的自立を育てるための手間暇のかかる営み、その過程(プロセス)が道徳=人間的な精神を生みだすのです。
手っ取り早く「上から規範を強要する」のは、最も道徳から遠いことだいう基本さえ知らないのでは、あまりに哀れです。日本文化を愛し、日本贔屓(びいき)で知られたアメリカ人のライシャワー駐日大使は、亡くなる数年前にNHKの元旦インタビューで「これからの日本に望むことは?」の問いに応えて、微妙な笑顔で「人類社会の一員になってほしい。」と言いました。世界の、ではなく、人類の、です。安倍首相の「人類の前に日本人という自覚が必要」とはアベコベです。
われわれは、人間です。一人ひとりの内面世界、赤裸々な心を基底とする一つの精神です。躾けられた自動人形ではありません。道徳は、何よりも大切です。独自の内面世界を豊かにもつ存在になって、はじめて人間となるのですから。権力による強要や方向づけは、人類社会=民主政社会では、あってはならぬ「反道徳」なのです。
基本を知りましょう。特に政治家や役人のみなさんは。
武田康弘