思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

わたしは、ポール・ルイスの奏でるベートーヴェンをこよなく愛しています。今年の来日公演、ドキドキ。

2017-04-11 | 芸術

わたしは、ベートーヴェンの音楽が大好きですが、

ピアノソナタと協奏曲は、ポール・ルイスのピアノが好き、というのを超えて「こよなく」愛しています。

優しさ、お洒落、溌剌、楽しさ、

矜持、揺るぎない強さ、

スムース、気持ちよさ、自由自在、

色気、うっとり、

躍動感、リズムのよさ、推進力、

健全、強靱、市民精神。

わたしにとって、ルイスの弾く「ピアノソナタ全曲」と「協奏曲全曲」の二組の全集は、ダントツのベストで、心にも身体にも頭にも、完全にフィットします。ウットリで超ブラボー!!

二組とも日本盤がないのは、日本の音楽関係者が音痴だからかな?(笑笑失礼)

もし、清瀬保二(ベートーヴェンとの出会いで作曲家になった孤高・独創の人で武満徹の唯一人の師)が聴いたなら、間違いなく絶賛したことでしょう。

今年11月の来日、ドキドキ(曲目は未定)二年前のベートーヴェン後期3曲の演奏会(ベートーヴェン245才の誕生日)には、銀座の王子ホールにミューズとエロースとアポロンとディオニソスの神々が同時に降りたった!のでした。


(クリックで拡大)


以下のインタビュー記事は、とてもよくルイスの演奏を現わしています。

凄いんだってば!!

王子ホールマガジン Vol.31 より

図書館で8歳の男の子が手当たり次第にクラシックのアルバムを借り出していたら、さすがに多くの利用者が好奇の目を向けるだろう。しかしリヴァプール在住のポール・ルイス少年は周囲の目など気にせずに、ブラームスやシューマン、ときにはグラズノフなどの交響曲のLPを次々と自宅へ持ち帰り、自分以外はほとんど使わないレコードプレイヤーにかけて聴き入っていた。なかでもベートーヴェンの交響曲第4番との出会いは、30年経った今でもはっきりと憶えている。
 第1楽章、穏やかにぽつりぽつりと呟き出した楽器たちが、やがて手を取り合って踊り出し、快活なアレグロへと流れ込む――ポール少年にとってそれはどこまでも力強く、胸踊る体験であった。彼はいてもたってもいられず母親をプレイヤーの前に引っ張ってきて、針を持ち上げ、第1楽章を最初から再生した。
 「聴いてよ!」
 ……穏やかな導入部から、快活なアレグロへ……
 「ね、すごいでしょ!」
 すると母は、
 「まあ……そうね、いいんじゃない?」
 「そうじゃなくて! すごいんだってば!」

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藤田嗣治 渾身の大作 『サイパン島 同胞臣節 全うす』 (近代美術館)ー死ぬこと 「教育勅語」の最高の成果

2017-04-05 | 社会思想

 対米戦争を実際上決定したのは、東条英機ではなく昭和天皇であることは、長く封印されていた第一級資料に基づく実証的歴史学が教える事実です。裕仁天皇は、戦争回避の「軟弱」な近衛文麿を辞めさせ、お気入りの東条英機を首相にし対米戦争に踏み切りました。天皇を生き神として崇拝していた東条が、天皇裕仁の意思と異なる決定をすることは不可能でした。

 アメリカは、東京裁判による戦後処理で、裕仁の戦争責任を免責し、戦争の最高責任者を首相であった東条英機一人に負わせることにしましたが、それは、日本をアメリカの同盟国(実際は属国)としてつくり直す戦略によります。東条が処刑された七日後に、皇居からの勅使が東条家を訪れ、勝子夫人に「東条は本物だった」と天皇の言葉を伝えたのは、東条が何もしゃべらずに一人で罪を背負い死んでいったことへの謝意でした。

 天皇裕仁は、マッカーサーと握手することで、皇室を無傷で残し、アメリカ駐留軍と自らの意思により、日本人と日本全土のコントロール(支配)に成功したわけです。

 昭和天皇は、幼いころから「天皇絶対の帝王学」を学び身に付けていましたから、日本の国体(皇室の存立と日本国とはイコールである)を守ることは、全てに優先しました。原爆投下の時も、まず最初に心配したのは、アメリカ軍の上陸によって「三種の神器」を奪われないか、ということでした。

 一人ひとりの「個人」の意思で日本という国をつくるという欧米の社会契約の考えほど日本に合わないものはありません。神話から続く連綿たる天皇中心は、日本の国体そのものですので(もちろん史実ではありませんが)主権者を個人としての国民とする民主主義は、日本の国体を破壊するものであり、決して許されません。日本人は「個人」ではなく、あくまでも日本国民という集団の一部であり、それは古代からの神話を受け入れて、天皇中心の国を守る「」でなければなりません。自民党の新憲法案が「個人」という言葉を消し「人」にしたのには、そういう背景があるのです。《自由と責任をもつ個人の育成》を柱とするわたし(ソクラテス教室・白樺教育館)の教育理念+実践とは正反対です。

 日本人という塊があるのであり、個人の意思が日本をつくるのではない。これは明治維新政府がつくったイデオロギ-(近代天皇制=靖国思想=国体思想)なのですが、いまなお絶大な力で、政治と人々の心を縛っています。現在「神社本庁」が喧伝しているのは、この明治維新政府の思想です。

 明治維新政府は、平等思想と平和主義の仏教を廃し、神道(明治政府が新設した国家神道の総本山が靖国神社)による新たな国づくりをしました。いわゆる「廃仏毀釈」です。日本に律令政治を起こした聖徳太子(厩戸皇子)が「十七条の憲法」で、神道を排して仏教による国づくりを宣言したのとはアベコベです。明治維新政府とは、このように日本の文化と伝統の破壊者でしたので、いまの天皇夫妻や皇太子夫妻は、この国体思想=靖国思想を忌避しているわけです。

 こういう歴史的背景を知れば、臣民であり、天皇の赤子であった戦前の日本人の精神状態が分かります。『教育勅語』は、日本独自の「」(上位者への恭順)という絶対道徳を現実のものとするための方途として個々の道徳律を掲げ、それを韻を踏んだ文章にしたものです。政府は、文章の添削を文豪・島崎藤村に依頼しました。

 この天皇現人神思想による『教育勅語』の威力は絶大で、日本人は、白旗を掲げて負けを認めることは恥であり、玉砕し、女も子供も死ぬのをためらわない人になるように躾られたのです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」。まさしく「忠」の精神の発露です。今なお忠臣蔵や忠犬ハチ公はアイドルですし、部活では先輩の命令は絶対ですし、過労で死ぬまで働くのも日本人です。上位者に忠誠を誓うことは、日本人の根本道徳であり、個人の自由と責任意識を基底とする古代アテネ出自のフィロソフィー道徳とも、みなが唯我独尊だとするブッダ(釈迦)の徹底した実存的=民主的倫理とも全く異なります。正反対の思想です。

 維新という革命で、日本を新たに支配するシンボルとされた天皇家は、江戸城に住むことになった(維新の志士により暗殺されたと言われるオサヒトの子は16歳で京都から連れて来られ、伊藤や山県らに明治天皇になるべく教育された)わけですが、その皇居の目の前にある「近代美術館」に、藤田嗣治の渾身の大作『サイパン島 同胞臣節 全うす』があります。わが日本人同胞は、臣民道徳をまっとうし、捕虜とならず、全員が死を選ぶのです。まさに『教育勅語』の最高の成果です。

 

写真は4月4日 武田撮影。近代美術館で。ソニーRX-1R(ゾナー35mm)

下は、「アッツ島玉砕」 データは同じ

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あまりにも稚拙な、菅官房長官らの発言。「教育勅語」の読み方の基本を講義します。

2017-04-04 | 恋知(哲学)

 明治維新時に伊藤博文らがつくった天皇現人神という「国家カルト教」は、皇室を利用して国民を統合し、富国強兵政策を進めた強力なイデオロギーでしたが、これは、いまの天皇夫妻と皇太子夫妻も忌み嫌う思想で、国体思想とか靖国思想と呼ばれます。

 そのために、その総本山である「靖国神社」(明治2年に維新政府がつくった施設)には、天皇も皇太子も参拝しません。日本の近代化を超スピードで進めた現人神(あらひとがみ)というカルトの手法は、一方では、精神の貧困(日本人に哲学なし)を生んでしまいました。細かな暗記勉強と技術的な知だけが求められ、一人ひとりの独自の精神世界の涵養はなされませんでした。天皇制政府と一体化する集団人となることが求められ、忠の精神に基づく「道徳律」に従うように教育されたのです。その象徴が『教育勅語』です。

 現人神である天皇が、臣民である国民に与えた形をとる道徳律ですが、「忠」という日本精神(上位者への恭順)こそ正しいとする思想を下敷きとして、その上に、個々の戒律が示されていますので、一つひとつの戒律の意味は、「忠」という土台となる精神=思想から解釈されなければなりません。切り離してしまえば、意味を変えてしまいます。

 「滅私奉公」、自分を滅して公=天皇に奉仕するという「忠」の道徳から切り離された個々の戒律は、意味をなさないのです。

 

 以上は、思想的な文章を読む上でのイロハなのですが、高得点が取れるという「知的」に優れていることだけが求められ、自分の頭と心を自分でつくるという「精神的」に優れていること=豊かさ、強さ、深さ、柔軟性、面白さなどが軽視される日本では、この基本を踏まえられない人が多く、とりわけ、高学歴者ほど、その傾向があります。「精神的」であることが「知的」であることより低いという価値転倒は呆れるほどですが、これを読まれているあなたは大丈夫でしょうか? 日本人は思想音痴で、哲学(正しくは「恋知」)がないのは、人間が人間として生きる土台がないのと同じです。いま、一番必要なのは、「自問自答(沈思)と対話によるフィロソフィーの営み」であり、道徳律の強要や暗唱とは逆です。

 

 菅官房長官や各大臣の「教育勅語」に関する発言は、あまりにも稚拙で、精神世界が貧弱で、かつ知的退廃というほかありません。呆れるを通り越し哀しくなります。見事なほどの「思想音痴」です。フィロソフィーの営みはなし。



武田康弘(恋知者)

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わが友、松橋桂子さん亡くなる。

2017-04-02 | 学芸

31日、わが友の松橋桂子さんが亡くなりました。真っすぐに生き抜いた見事な人生でした。一生独身でした。

孤高の天才作曲家、清瀬保二さんを最期まで支えた松橋桂子さんは、詳細な大著『楷書の絶唱ー柳兼子伝』を現わし、日本のルネサンンスとも呼ぶべき「白樺派」に新たな視点から光を与えました。兼子さんの偉大な業績は、この書によりはじめて世に知られることになったのです。

頭脳明晰な松橋さんは、清瀬保二長男夫妻から絶大な信頼を得、また、柳兼子のただ一人の内弟子=大島久子さん(今年92歳)との友情は、兼子さんの復権に大きな力となりました。わたしが、我孫子市に「白樺文学館」を創設した時(建設費用と発案はわたしの哲学会の生徒であり友であった佐野力さんによる)、柳兼子さんを白樺派の中心人物の一人として加え、地下に音楽室をつくったのは、松橋さんの著した『柳兼子伝』との出会いによります。

今日は、白樺同人(副館長)の古林 治さんに頼んで、クルマで松橋さんの公団に行き、北海道から上京している二人の妹さん(松橋さんは10人兄弟)と長時間にわたり思い出話をし、清瀬保二さんについて書かれた手書きの資料=詳細な年表などと、たくさんの楽譜を頂いてきました。カセットテープやLPなども。白樺教育館に保存します。

妹さんお二人。
わたしの撮った写真(白樺教育館で)が飾ってありました。
郷里の釧路のお墓に入るそうです。妹さんの敷地は2万8千坪とのことで、      

あまりのスケールに唖然としました。後で、大きな写真を送ります。

 

一日に3時間の練習を欠かさなかった松橋さん愛用のグランドピアノは、大変よい状態でした。
  


松橋さんが上京して、劇団に所属していた若き頃の写真です。



1981年9月  清瀬保二さんの葬儀で。弟子の武満徹(51才)松橋桂子(47歳)

中野区 白鷺の公団 19ー20  古林さんのクルマ

 

武田康弘(「白樺文学館」初代館長・「白樺教育館」館長)


 

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テリー・伊藤さんは、また安倍政権のよいしょ。篭池理事長と安倍首相の切り離しに必死。

2017-04-02 | 社会批評

篭池理事長と同じく「戦前思想」への回帰=教育勅語肯定という思想の持ち主である安倍首相サイドは、篭池氏が可視化してしまった愛国主義教育への国民とマスコミの反発ー忌避に慌てて、篭池氏の法令違反や個人的な問題にみなの意識を向かわようとしています。戦前思想の肯定というドイツでは犯罪として処罰される罪を犯している安倍政権の思想問題(=これが本丸)に目が向かぬよう、必死です。

その路線を進めるのが、テリー・伊藤などの芸能人であることは、今朝のテレビでよく分かりました。問題の本質=思想的同一性を突くのとは逆に、篭池という人間の特殊なキャラクターにずらし、「あんな教育、現代に通じる訳がない、まっとうなウヨク!?が気の毒」という意味不明のコメントで、唖然です。

1948年6月に国会で廃止が決議された「教育勅語」をよしとする閣議決定をした安倍内閣、国権の最高機関である国会での議決を無視し、それを内閣で覆すという正真正銘のファシズムの政権が「よい右翼」!?で、篭池は「悪い右翼」。

ほんとうは、篭池理事長は私人としての右翼で、安倍政権は、国家権力を私物化して事を進める右翼、ということです。反論出来る方、いますか? 悪さの程度で言えば桁違いの悪=公共悪です。繰り返しますが、ドイツでは戦前思想は、民主主義の敵として取り締まりの対象です。公職にはつけません。わたしたちも物事の本質を知らないと怖いことになります。



武田康弘(元参議院行政監視委員会調査室・客員調査員「日本国憲法の哲学的土台」を講義)

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羽生結弦君と宇野昌磨君、「個人」としての優しさと強さの魅力ーー新しい世代の自由な飛翔に乾杯!

2017-04-02 | その他



今日、アイススケートを見て、感動しました。

金メダルと銀メダルを獲得、という意味ではありません。

二人の若者のしなやかな強さと美しさに見惚れたのです。

ニッポンチャチャチャという軽薄さとは無縁の「個人」の強さと魅力です。

足は大地に根を張って心は宇宙を駆け巡るーー見事な舞にドキドキしました。

二人とも女性的な美しさをもつ美男子で、優しさと強さを併せ持つ若者。新しいタイプの日本人で、実にいい。

表象台でもフェミニンな美しい衣装で、ネックレスをして、とりわけ目立ちました。

日本のスポ根というレベルをはるかに超えた、みごとな一人の人間です。

アナクロニズムの政治世界とは対極にある二人の魅力ある「個人」に乾杯です。

 

武田康弘

 

 





 

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安倍政権の「戦前思想」への回帰ーウヨク化の手法は、「痴漢行為」と似ている=実にいやらしい。

2017-04-01 | 社会思想
 
 以下は、中野 晃一さんのfbからです。正鵠を射る指摘です。
わたしの泥 憲和さんのfbへのコメントと一緒に載せます。
 
中野 晃一 
これまでも時折指摘してきましたが、日本の右傾化の進め方って「痴漢」に似てるんですよ。

教育勅語を教育の唯一の根本としなければ学校で教えていいという閣議決定にしても、銃剣道を学校で教える武道として選択してもいいという学習指導要領にしても、コソコソっと逃げ道を作っておいて、次第に拡大していくやり方。バレそうになったら、いつでも手を引っ込められる、と。籠池のシッポ切りみたいに。で、またやる。

「限定的」な集団的自衛権も、「テロ等」準備罪という名の共謀罪も同じ。次第に「痴漢行為」が蔓延化すると「痴漢現象」の責任や問題についてこちらの感覚さえ麻痺してくるというわけです。

...

女性器を手で掴んで押し倒せばいい、というトランプは、ハードなファシズムの進め方なわけですが、安倍政権はソフトなファシズムで、行き着く先は同じ。

これがエイプリルフールでもなんでないという2017年4月1日のヘル日本。それでも「上手な嘘なら騙されたい」人が多いのですかね。

(色字は武田による)

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泥憲和さんは「銃剣道」というバカらしさについて明晰に説明したfbをだされましたが、そこからわたしは、ニッポン主義の愚かさを、「イヤミ」として書きました。


 
武田 康弘
日本の歴史と伝統は、戦(いくさ)です。禅の修行で、人殺しも平然と行えるよう心を鍛え、心臓一突き(銃剣道)で、相手を殺める。
根絶やし(皆殺し)の織田信長は合理思想の英雄と言われますし、神社は軍人を崇めます。
勝つか負けるか、人生は、勝つことと見つけたり
。負け犬はおとなしく勝者に従えばよいのです。勝てば官軍
わが国に固有の道徳は「忠」です。忠臣、主君に仕える、己のつまらぬ命を差し出すのが、道徳です。天皇ー皇室こそ公であり、国体そのもの。忠犬ハチ公はみんなのアイドルですし、アメリカの忠犬〇〇公は、高支持率です。
この国に生まれたからには、犬のように、昆虫のように生きかつ死ぬのです。人間性の豊かさだの個人の精神世界だのと生意気なことを言う輩は、非国民。日本にはいらない。
明治維新の精神=靖国思想の政府に従うお行儀のよい子=愛国少年と愛国少女を育てよう。ニッポン万歳!!
世界の真ん中で輝く国、シナなど蹴散らし、アジアのトップに、それが我が臣民の心。
上位者に従え!当たり前のことだ。
あれれ、脱線しました。失礼。
 
 
Michiyo Okamuro
日頃思っていることを明確に言っていただいてありがとうございます。
 
武田 康弘
いつも「ほんとうにおもうこと」を言ってしまいます。ごめんなさい(笑)。国体主義の頭と心のイカレタ輩には、これからもずっと超イヤミを言いまする。賛同ありがとうございます。
 
大林 慈空
おっしゃる通りだと思いました。
日本人の伝統的精神は皮肉にも忠。やるかどうかは別にして、みんな大好き滅私奉公。
江戸から明治にまったく体制が変わって、将軍様が天皇様に変わっても、相変わらず忠義が美徳
大日本帝国憲法も教育勅語も内容なんて、明治の庶民は意味がわからないけど、文明開化の匂いがして、大賛同した。ただそれだけ。
 
武田 康弘
だから、受験勉強と同じ「事実学」(意味論・本質論なし)と、技術的知性&能力ばかリです。
精神の深みや広がりや人間性の面白さがなく、面白いということは、バラエティー次元に限定されたものになる~~(笑えない笑話)。
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