★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

呪いとしての恋愛小説

2010-10-09 23:13:50 | 文学
コズミンスキー監督の「嵐が丘」をみる。キャシーがジュリエット・ビノシュ、ヒースクリフがレイフ・ファインズである。

ジュリエット・ビノシュは「汚れた血」でびっくりして以来、出演する映画はちょこちょことみるようにしているが、男を惑わせる、というより錯乱させる目つきをしている。イザベル・アジャーニは、「ポゼッション」の印象からか、彼女にとりつかれたら知らないうちに毒飲んじゃいそうだけど、ビノシュの場合、死んでから自分がとりつかれていたことに気づいて後悔しそうな感じである。

「嵐が丘」の原作は長いこと読んでないが、映画でみても科白ひとつひとつが呪いのように機能する。昨日、授業で「ロミオとジュリエット」の舞踏会の場面を大教室でながしたけど、そのとき二人がキスするときのやりとり──「聖女はほだされぬ」とか「巡礼」がどうの「罪」がどうの、とかいう科白をあまり現実ではやらない方がよいのではないだろうか、と道学者じみたことを言ってしまったのだが──、相手を呪縛するには、呪い的な科白も必要なのではなかろうか。日常会話してたと思ったら、突然ベッドシーンになっているよくある通俗小説(といっても、純文学も結構そうであるが──)は、ほとんど最近のポルノといっしょで、動物的なこと甚だしい。優れた恋愛小説は、ある意味ホラーと同じで言葉が生き霊となって人間を襲うものなのではなかろうか。

それにしても、日本だと「嵐が丘」や「ジェイン・エア」も、小杉天外の「はやり唄」みたいな感じになってしまい、人物たちが周りに気を遣いすぎて恋愛に集中できないのだ。やはり「源氏物語」みたいに、ある場所に人間を隔離する必要があるのだろうか。