★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

実存のない聖人たち

2011-10-24 08:05:50 | 思想


昨日届いた『聖おにいさん7』。まだ読んでないがたぶん面白い。

確かに、イエスや仏陀をキャラ化してしまっているという意味では、宗教漫画としては最悪であり、宗教に対する冒瀆とさえいえ、――それが日本的な悪習なのかもしれないのは自明である。しかし、こういう漫画が出てくる必然性を無視してはいけないと思うのであった。

この漫画の特徴は、主人公が「聖人」であるからということで、ブッダやイエスにアイデンティティに関する悩みが全くないことである。前の記事「自分を保守しますっ(笑)」で書き忘れたが、最近よくある大いなる勘違いの一つに、「人は他人による承認がない状態、つまり自分が必要とされていないと感じると実存的な不安に陥ってしまうし、陥って当然である」というドグマがある。だから仕事で交換可能な人間であると見なされるとみんなアイデンティティを失って辛くなると言うわけだ。本当にそうであろうか。

ブッダはイエスは常に自分が必要とされているが故に、下界でそうではないただの人として暮らすことがとても気持ちのよいことであった。私はこのことは別に聖人に限ったことではないと思う。人は誰にも必要とされず、仕事では代替可能な人間となることによって解放されることもあるのである。だいたい他人が、──親や恋人であっても、というか寧ろ近い人間であればあるほど──自分のことをきちんと認識することなど絶対にありえない。自分でもよくわからんのに。他人にやたら承認を求めるのは、すなわち、自分の価値をわかった気になる輩、つまりは他人の価値についてもそういう即断をしたがる輩なのではないか?そもそも私は人間にはアイデンティティなど存在していないと思っている。人間にはもしかしたら人権が神から付与されているかも知れない。しかしそうだとしたら、なおさらアイデンティティはない。平等なんだから。アイデンティティを過剰に求めることこそ差別化への道である。実際、自分の得意な分野で自分を持たせている人間は、その分野だけじゃないところで寧ろ威張りたがっているではないか。

私も、将来の見えない10年間を過ごしていろいろな仕事場を転々としていたことがある。確かに私は代替可能な人的資源に過ぎなかったが、代替可能だからこそ、仕事場を移動することも出来たはずだ。確かに学問もやりながらであったから特に自尊心を全面的に打ち砕かれなかったかもしれないので、本当に何もかも失った精神状態を知っているとはいえない。だから、中島氏のように、例えば加藤智大氏の代弁をしようとも思わないし、出来るとも思わない。ただ、加藤氏のような人が、本当に自分の代替可能性に嫌気がさしてぶち切れてしまったのかはわからないと思う。代替可能性は自明の理に過ぎない。我々がストレスを感じるのは、そこじゃなくて、処世のために仲間はずれを食ったり、頭が悪そうな上司(部下)に使われたり……といった、もっと具体的なことではなかろうか。代替可能性はあってがよいが、代替基準がおかしいとかね……。だいたい、代替するということそのものに、誰でもよくない理由が存在しているわけで、首を切っている方は、いわば、その人の特殊性にこだわっているわけである。本当に代替可能性があるなら誰でもいいはずだからだ。我々が苦しむのは、その判断の内容であって、判断そのものではないと思う。

端的に言えば、個々の実存はどうでもよい、問題は正統性の方だ、とわたしは思う。無論、われわれはそういうことにほとんど堪えられないわけであるが……

自分を保守しますっ(笑)

2011-10-24 05:10:51 | 思想


中島岳志氏については、氏がヒンズーナショナリズムやボースの研究でデビューしてきた時からちらほら読んできたが、たぶんこの本は氏の著作の中でもあまりよくないものに属するのではなかろうか。中島氏は私の見るところ、典型的なある種のアカデミシャンであり、本の中で対談している宮台真司などとは根本的に異なる人種である。この本の中でも第2部以降の、『論座』などに書かれたジャーナリスティックな文章は、あまりよくない。なぜかといえば、ジャーナリズムのなかでは人に通じさせることが必要だと思ってか、知的厳密性が失われているからである。引用されている文章の解釈がかなり恣意的になっている。これは氏が馬脚を現したというより、マイクの前で緊張してつい人の言っているようなことを口走ってしまう習性のためだと思う。マイクの前でむしろ知的になる傾向にある宮台とは違う。

大川周明の原稿を発見したときのナイーブで無邪気な文章を読んでいると、私なぞ、ついこういう輩を徹底期に弾圧したくなるのであるが、それは無論、私がやや同類であるからだ。ただ、私が次のような文を書けるかと言えば無理である。「人生が研究の方向に大きく旋回していった」とか「私は、震える手を握りしめながら、その場に立ちつくした」とか「そして私は、橋川の残した課題を、生涯をかけて引き継いでみたいと思う」とか……。私はこういう文を羞恥心のあまり弾圧するところから思春期が始まると思っていたのだが、思春期が終わったところにこういう文がでてくるのが信じられない。しかしアカデミシャンの中にはこういうタイプがかなりいる。この素朴さが論文を書くのに必要な人達もいるのだ。

対して宮台氏の方はどうかといえば……。宮台氏の愛読者の男の子が自殺するといった事件があった。彼は、宮台が『ダヴィンチ』に書いた「男性諸氏に告ぐ。婦女子保護のため、真実の愛、絶対禁止!違反者は即死刑!」といったせりふに反応したらしいのだ。宮台のこういうせりふは、彼の一番よいところで、人を元気にさせるものだと私は思っていた。演説としてちゃんと韻を踏んでいるw、まさに死を賭して「真実の愛」に突き進む勇気を与えるよいせりふではないか。宮台の見立てで言うなら、宮台の演説は常に美学的ではあるが、後期ロマン派のファシズム的「美」はない。こういうせりふを「死刑宣告」と受け取り死んでる「美」的な奴はほっとけばよろしいというのが私の意見であるが、中島氏の著作を読んでいると、どうも「死刑宣告」ととりたがる弱い青年達に優しくしないといけないような気がしてくるのだ。

中島氏と同じく昭和初期のナショナリズムの周辺を研究しているから、この時代の青年の鬱屈を最大限すくい取ろうとは思ってきた。なんでもかんでもとりあえず肯定だ、これが学問の基本姿勢である。中島氏の研究は、確かに、90年代以降のアカデミシャンたちのそうしたうじうじした動きの中から出てきたのだ。むろんそれは自らの周りが昭和初期の鬱屈と似ているような気がしたからでもある。……だから中島氏がある程度世代論的に語るのもわかる。しかし世代論なんてものは、おおむね、先行世代に対する勘違いと、大人に対する子どもの処世みたいなもんだということも忘れずにいようと思うのだ。なかなか自分が信頼されず存在感もなくなりそうな子どもが「僕はいらないの~」と愚図ってみせてもあまり効果がなかったので、「俺は右翼だからさ~いつキレてもおかしくないぜ」と言ってみたところ、戦後民主主義者の心の広い大人達が案外優しくしてくれたというわけである。アカデミシャンなら大学ポストを巡る処世のなかでそんな演技をしている奴がいた。そういえば、私もその一人だったかも知れない。ポスコロとカルスタ(←軽いスターリン主義かと思った。実際やってることはそんな感じだったしぃ)に媚びを売るよりはましだったかも知れないが、恥ずかしい限りだ。大江健三郎「セヴンティーン」のヘタレ主人公とあまり変わらん。……申し訳ないけど、まだまだ90年代以降の右的な動きは、こういった大人の〈庇護〉の中でこそ許されている側面があると思う。戦争での「外」からの爆撃を身をもって体験し、貧困やあからさまな占領を知っている親の世代に対して、海外旅行に行ったとか留学してきたという理由だけで「戦後世代は内にこもった平和ボケをやめよ」とか「これからは日本だ」とか、勘違いも甚だしい。内にこもっているのはどっちなのだ。

保守の立場とは、目に見えない地味なものだと思う。聞いてくれる親たちがいなくなりかけているのに、「オルタナティブ」がなんとかとかいっているうちは我々は確実にほろびる。