昨日届いた『聖おにいさん7』。まだ読んでないがたぶん面白い。
確かに、イエスや仏陀をキャラ化してしまっているという意味では、宗教漫画としては最悪であり、宗教に対する冒瀆とさえいえ、――それが日本的な悪習なのかもしれないのは自明である。しかし、こういう漫画が出てくる必然性を無視してはいけないと思うのであった。
この漫画の特徴は、主人公が「聖人」であるからということで、ブッダやイエスにアイデンティティに関する悩みが全くないことである。前の記事「自分を保守しますっ(笑)」で書き忘れたが、最近よくある大いなる勘違いの一つに、「人は他人による承認がない状態、つまり自分が必要とされていないと感じると実存的な不安に陥ってしまうし、陥って当然である」というドグマがある。だから仕事で交換可能な人間であると見なされるとみんなアイデンティティを失って辛くなると言うわけだ。本当にそうであろうか。
ブッダはイエスは常に自分が必要とされているが故に、下界でそうではないただの人として暮らすことがとても気持ちのよいことであった。私はこのことは別に聖人に限ったことではないと思う。人は誰にも必要とされず、仕事では代替可能な人間となることによって解放されることもあるのである。だいたい他人が、──親や恋人であっても、というか寧ろ近い人間であればあるほど──自分のことをきちんと認識することなど絶対にありえない。自分でもよくわからんのに。他人にやたら承認を求めるのは、すなわち、自分の価値をわかった気になる輩、つまりは他人の価値についてもそういう即断をしたがる輩なのではないか?そもそも私は人間にはアイデンティティなど存在していないと思っている。人間にはもしかしたら人権が神から付与されているかも知れない。しかしそうだとしたら、なおさらアイデンティティはない。平等なんだから。アイデンティティを過剰に求めることこそ差別化への道である。実際、自分の得意な分野で自分を持たせている人間は、その分野だけじゃないところで寧ろ威張りたがっているではないか。
私も、将来の見えない10年間を過ごしていろいろな仕事場を転々としていたことがある。確かに私は代替可能な人的資源に過ぎなかったが、代替可能だからこそ、仕事場を移動することも出来たはずだ。確かに学問もやりながらであったから特に自尊心を全面的に打ち砕かれなかったかもしれないので、本当に何もかも失った精神状態を知っているとはいえない。だから、中島氏のように、例えば加藤智大氏の代弁をしようとも思わないし、出来るとも思わない。ただ、加藤氏のような人が、本当に自分の代替可能性に嫌気がさしてぶち切れてしまったのかはわからないと思う。代替可能性は自明の理に過ぎない。我々がストレスを感じるのは、そこじゃなくて、処世のために仲間はずれを食ったり、頭が悪そうな上司(部下)に使われたり……といった、もっと具体的なことではなかろうか。代替可能性はあってがよいが、代替基準がおかしいとかね……。だいたい、代替するということそのものに、誰でもよくない理由が存在しているわけで、首を切っている方は、いわば、その人の特殊性にこだわっているわけである。本当に代替可能性があるなら誰でもいいはずだからだ。我々が苦しむのは、その判断の内容であって、判断そのものではないと思う。
端的に言えば、個々の実存はどうでもよい、問題は正統性の方だ、とわたしは思う。無論、われわれはそういうことにほとんど堪えられないわけであるが……