★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

朝に「野の道」を読む

2011-10-03 06:59:29 | 思想


朝です。ハイデガーの「野の道」を高坂正顕の註と解説によって読んでみたが、さっぱりだった。子どもたちが舟を造って小川に浮かべて「世界周遊」のつもりだったとかかいているが……。そんなこと考えている子どもって多いのかね?虫とかいないのか。独逸には……。高坂は、ハイデガーには「東洋の故郷を思はす響き」があるというが、わたくしには全くきこえん。

ちはやふる 対 スクリアビン

2011-10-03 00:56:49 | 漫画など


頭がふらふらしていたので、『ちはやふる(一)』を読んだ。百人一首のマンガである。どうやら小学校編はすぐ終わり、二巻で高校生編が始まってしまうらしいが、わたしはもっと小学校編がよみたい気がした。小学校高学年の成熟が人生の最高到達点とも言えるのは、みなさん身が覚えがあるでしょう?ないですか。そうですか。

右は、好きなCDでときどき聴く。ウゴルスキのピアノ、ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団のスクリアビン。スクリアビンの特徴は無垢性だと思う。(ちなみにマーラーも私はそうだと思う。)だから『ちはやふる』によく似合っていた。これが、彼の音楽あまりよく思わない人にとっては「彼のオーケストレーションは豚がオレンジを見分ける程度」に聞こえてしまうわけだ(たしか「ショスタコーヴィチの証言」に、グラズノフが言った言葉としてかいてあった気がする)。無垢といっても豚まで行かないだろうとは思う。のみならず、この無垢性は20世紀の神秘主義(というより快楽主義か……)を予見していた。よく言われていること(かどうだかしらんけど)だが、スクリアビンはピンク・フロイドなどの前触れである。交響曲第5番のピアノの役割は、ロックバンドのギターに近いものがある。突然ソロをとる、そして音の洪水の中に引っ込む。19世紀の音楽は、ワーグナー路線が映画音楽として生き残り、スクリアビン路線がロックコンサートとして生き残っているのではあるまいか。

……たんなる妄想ですけど。