★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

中心文(笑)

2011-10-26 13:46:40 | 思想


教育業界でよく「中心文」っていうのを使って議論をしてるんだけど、だれか説明してくれませんか。この「中心文」とかゆーのを。どうやら説明文にはそういうものが存在しているらしいんだけど(笑)まさか、論理的な文章が主題を示す文とその他で成り立っていると思っているんじゃなかろうな。たぶんそういう考えの奴が、小説も説明文を読む能力で読めると称し、誤読を教室で振りまいているんだろう。

問:次の文章から中心文をさっさと抜き出せ(笑)。

私は筆を執っても一向気乗りが為ぬ。どうもくだらなくて仕方がない。「平凡」なんて、あれは試験をやって見たのだね。ところが題材の取り方が不充分だったから、試験もとうとう達しなくって了った。充分に達しなかったというのは、サタイアになったからだ。その意ではなかったのが、どうしても諷刺になって了った。(二葉亭四迷「私は懐疑派だ」)


……まさか最初の文とかいわんよな……


Made in Occupied Japan

2011-10-26 11:35:21 | 文学
 

献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。鍬とる者は、鍬とった野良姿のままで、献身すべきだ。自分の姿を、いつわってはいけない。献身には猶予がゆるされない。人間の時々刻々が、献身でなければならぬ。いかにして見事に献身すべきやなどと、工夫をこらすのは、最も無意味な事である、と力強く、諄々と説いている。聞きながら僕は、何度も赤面した。僕は今まで、自分を新しい男だ新しい男だと、少し宣伝しすぎたようだ。献身の身支度に凝り過ぎた。お化粧にこだわっていたところが、あったように思われる。新しい男の看板は、この辺で、いさぎよく撤回しよう。僕の周囲は、もう、僕と同じくらいに明るくなっている。全くこれまで、僕たちの現れるところ、つねに、ひとりでに明るく華やかになって行ったじゃないか。あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」
 さようなら。

(太宰治「パンドラの匣」)


……Made in Occupied Japan