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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

森田必勝 対 村山知義

2012-06-06 08:34:59 | 文学


観てきた。わたくしは常々、インパーソナルな天皇を絶対者とみなすといった三島の言いようを「ああそうだよなあ」とつい納得してしまうのが文学的な能力であり、天皇である必然性はないのに、という論理矛盾をみるのが社会学な能力だと思ってきた。早稲田や東大での三島の対話を聞くと、学生運動を乗っ取っている後者のタイプの質問者に対し、三島が困惑している様が見て取れるように思う。わたくしは、三島事件を、まずは徹頭徹尾彼の思想的帰結の事件と解す「べき」だとおもっている。その点で、この映画はすごく率直な語りでよかった。いまはやりの、三島がどう見えたか、といった相対主義(というか、他人事主義だね。その意味で映画「光の雨」は最悪だった……)を一切導入していないのがよかった。上の映画は、三島の文学を読んだことのない人にとっては、案外平板な記録映画の如く見えるかもしれない。しかのみならず、この映画の監督は、三島の文学の中核をなしているであろう、エロスと絶対者の関係については殆ど描いていないようにおもわれる。しかし、この点は、下手するとまた「三島の死は、トリスタンとイゾルデみたいなもの」、あるいは、「あれは森田必勝との心中なのだ」といった週刊誌的な見解に堕するおそれがある。

……わたくしはこんなことを考えたうえで、上のパンフレットのあった宮台氏の「情念の連鎖」が重要だという指摘はわかる気がした。映画は、途中から、三島がよど号事件や森田必勝にある種感化され引きずられてゆく様をえがいているようだった。多くの観客が感じることだと思うが、途中からこの映画は、森田必勝が主人公だというかんじになってくる。三島の演説をまったく聞こうとしない自衛隊員たちに対して、三島の傍らで鬼の形相の森田──、森田役の満島真之介氏の渾身の演技だった。この印象は、裏返せば、三島の文武両道の「武」──というか「行動」の部分であったクーデターで、何故に演説なんかやってるのか、という私の疑問でもある。2.26でさえもっと男は黙ってなんとやら、であった。あの状況で肉声を静かに聞くほど自衛隊員はおとなしくはない。三島は教育実習に行ったことないのかっ。というのは冗談であるが……、結局は「行動」ではなく、理屈で説明しなければならなかった事柄が重要なのに、三島自身と楯の会の数人ですべてやろうとするから無理があったのではなかろうか。──無論三島は分かっている。左の連中の方がもっと暴力の意味を知っていたところがあるね、つまり「群」の力だ。三島は心優しく個人主義者なもんだから、そんなものに頼る自分は許せなかったのに違いない。

で、映画の後みたのがこの展覧会



仮に三島を右というなら、左の村山知義である。村山が大正末期にドイツから帰ってきたあとの活躍は、あらためて展示されてみると驚くべきものである。彼は、本や雑誌の表紙のデザインを多くやっていて、我々がつい昭和初期のモダニズムとか思っているイメージのかなりの割合が、彼が手がけたイメージなのである。彼がニーチェ主義者で、「すべての僕が沸騰する」といったエモーショルな言い方を好みそうなのはなんとなく推測できるが、こういう人間が歳をとってくるとどうなったのか、がすごく気に掛かるところである。それは、確かに上の三島とも関係があるに違いないので、考えてみたいことである。