★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

命賭けます

2012-06-12 23:06:22 | 文学
今日は厳しいことで知られる先生の授業公開を見に行った。学生その他によるともう「命がけ」でかからないとまずい授業だそうだ。しかし、学生その他が「命がけ」とかいってるときは、だいたい、演習の一ヶ月前に憂鬱になり、数日前から徹夜気味になるくらいの程度のことのように思われるのだが。そうではない場合は、もう少し違う理由がくっついているものである。そっちの方にまさに重大な場合が多いが、それはそれとして全体の問題として考えるわけにはいかない。

……今日の印象は、「確かに厳しいが大学なら当然」であった。学生を詰問したりする風になっているのは私の授業の方かもしれない。学生も大学の教員も、真に教育的に厳しいこととは何かということをもう少し考えた方がいいと思う。今日の授業はその点理想的なバランスと内実を持っているように思えたが、もう少し学生が優秀である必要もあった。学生に合わせて甘い態度を取ることは、学生を馬鹿にすることであるからそれはよくない。学生の「精神的な問題」として語られているもののなかには、学生の自身に対する思い上がりと、教員の側の学生の過小評価が絡んだものがある。それにしても、勉強の習慣が付いていない学生がかくも多いようにみえるのは、なぜなのであろうか。理由は簡単である。声のでかいちんぴら学生を教員がちゃんと抑圧しないため、その者たちの頭脳レベルにその他の学生が幇間のように従っているからである。つまり、問題は教育というより全体主義である。おそらく、勉強の出来る学生は、その全体性から逃れるためのある種の精神的トリックを自分に掛けてしまったものが多く、それゆえ、勉強が出来るが変なやつ、に成っている可能性がある。

と、それはともかく、――確かに、昔から自称厳しい先生にもときどきおかしな人がいた。なにかすると「死んでもやってこい。這ってでも出てこい」と言っている人で──考えてみればスポコン並に荒唐無稽でロマンチックなせりふであるが──、その割に授業の内容がいまいちなのである。教える立場に立っている今、厳しく内省すべきことである、が、だからといって、学生に優しいようで厳しい授業というのが容易に成立するとは思えない。実際は、単に優しい且つ易しいという授業になる。私が思うに、教授者が必死に勉強してゆくことを自分に強い、同等の努力を学生にも強いるような雰囲気を醸成することが困難だが重要である。教師と学生の関係は、最近、「双方向性」とかいう形式的な観念によって語られているため、学生の意向をフィードバックすることばかり言い立てられているが、これは授業を内容と関係ない形式的なコミュニケーションとして硬直化させる意味で非常によくない。本来、そういうコミュニケーションの把握は、授業準備のための前提にすぎず(というより、教師の人間を認識する力量の問題なのである)、学生の意向を知りつつ無視することだって必要になるのは自明ではないか。われわれは、理や真理に従うよう訓練されているはずであるが、気を抜くと必ず容易に人間関係のようなものを優先している。しかもそれを忘れる。しかも、よくない授業においては学問自体がひどいごまかしを含んでいる場合がほとんどであることを心ある人はわかっているはずである。学問より教育を優先せよとかいった形式的なセリフは容易には出てこないはずなのだ。



こっちは、本当に命を賭けてしまった人達の場合。左の映画では、ベース事件の後浅間山荘に立てこもった連合赤軍のなかで、まだ未成年だった加藤君が、「お前達、いまさら落とし前つけられるかっ。お前ら勇気がなかったんだよ」と他の年上のメンバーを怒鳴りつける場面がある。――これは、監督が連合赤軍に言いたいことでもあり、同時代の人間にも、監督自身が自分にも言いたいことなのであろう。確かに空気に抗うためには勇気が必要であろう。ただし、おまけ映像で元連合赤軍の人達が言っていたように、勇気があっても、もともと森や永田のいうことが半分もっともだと思っている限りその勇気は出しようがないのである。当時私は生まれたばっかりだし、これほど激しい運動をやったこともないから一般論でしかないが──、必要なのは勉強であり智慧である。それがなければ勇気なんかでるかっ。だいたい、浅間山荘事件の映画は、この事件を若さとか純粋さとか勇気とかの話にしすぎなのである。あの事件の問題は、さしあたり徹頭徹尾マルクス主義の思想の問題である。笠井潔の本やポストモダニズムの問題意識のあとに、かかるメロドラマが続出するとは、我々の社会がまだ、古典主義(秩序形成)かロマン主義(テロ)かという逡巡でうろうろしていることを意味するのではなかろうか。ただし、この逡巡を容易に相対化できると考えてはならない。吉本隆明などが言い、三島由紀夫や学生運動が提起していたのはそのことであろう。

右は、昔吉本隆明に罵倒されたこともある笠啓一氏が、最近訳したブレヒトの本。縁あって頂いたものである。花×清輝や大×巨人や武井×夫などが目立つ「新日本文学」を支えていたのは、氏のような人であった。「英雄を必要とする国が不幸なのだ」というせりふは、連合赤軍や我々に言う資格はない。氏のような人が言うべきせりふである。