茅屋の裡に入りて見れば、妖怪一個も在らず、一邊の石祠の裡を覗き見れば、爰に三蔵は綑縛められて御座したり。悟浄走り入つて、縛を解下して、急ぎ行者が居る路傍へ皈りければ、行者懽喜び三蔵に向ひ、「此後齋を求め給はゞ我們に任せ置き給へ」と云へば、三蔵打點頭き、「我假令餓死するとも、此後自ら癖を要むべからず」とて悔みけり。
却説七個の女子は、衣服を鷹に取られて出る事能はず、水中に蹲り、個々鷹を罵り居たり。八戒門を排いて入り来り、是を見て打笑ひ、「女菩薩、我をも同く洗澡させて給はるべし」と、直綴を脱捨てて水中に飛入りければ、女妖等は大いに怒り、「此和尚十分無禮なり。出家人の身として、女人と同く洗澡せんとするや」と一齊に取囲んで打んと為るを、八戒原水練の達者なれば、水中に在って忽ち變じて一個の鮎魚と倣り、女子等が肌を探りて狂ひ廻れば、女妖等大いに困り果て、西へ追へども提當てず、東へ搜れども手を滑し、那方此邊と亂轉し、女妖們都て心倦み精勞れて詮方を知らず。
三蔵は比較的女の妖怪に欺されて縛られたりするのであるが、そしてそれが面白いのである。そしてここでは猪八戒がニンフのなかにドボンするのも面白いのである。この面白さに抵抗するのが、現代ならジョディ・フォスターみたいな女傑である。
マザーグースを引くまでもなく、豚が踊るのは面白いのだが、それが差別に転生したりするのはよく知られている。
大学の時、一度ジョディ・フォスターになった夢を見たことがあるのだが、朝から、世界中から悪口が聞こえてきて、昼の十一時頃にはもう狂いそうだった。これはたぶん、実際に近いという実感があった。彼女が性的マイノリティーで、養子をとったというニュースを昔きき、そうだろうと何の根拠もなく思った。
東大や京大で一番売れている本とかいう宣伝文句がよくある。そして、そういう本はストイックな本だったりするのであるが、資本社会のなかでは、それはつまり生協で一番売れている唐揚げ弁当に近づいていると言うことではなかろうか。昔通っていた大学の生協は**派だったので、新左翼が好きそうな本が異様に売られてたが、新左翼を唐揚げ弁当に近づけようとする態度だったといへよう。
唐揚げ弁当は、豚の踊りと同じだ。
ウルトラマンやウルトラセブンには反唐揚げ弁当的なストイックさがある。これが、唐揚げ弁当的なものに徐々に移行するのは当たり前だ。小学校一年生ぐらいのころを思い出してみると、ウルトラマンとかセブンの怪獣は地味で、ウルトラマンAのヒッポリト星人とか太郎のテンペラー星人みたいなどっからその声出てるのみたいなところとか、造形も自分の描く落書きの欲望にそってるようで面白かった気がする。口先は伸ばし、手先も無意味に伸ばす、みたいなものである。これは我が儘さというより、動物的なものの復興だ。
90年代、穂村弘がニューウェーブの短歌を共同体的な感覚をそもそも通過していないと言っていたと思うけど、いまから振り返ってみるとまったくそんなことはなく、むしろ共同体的だったような気がする。穂村氏はそれを〈わがまま〉な歩行だといったが、本当は動物的な歩みだったと思う。それはそうは見えなくても、共同体的なものの抵抗運動だ。
アメリカの共和党が民主党への抵抗の側面がもともと強いように、自民党というのはおそらくある種の抵抗勢力の集まりであって、そこをたんに大勢力のマジョリティみたいに考えてしまうのが間違いだ。抵抗者みたいな人たちが次々にヒヨってますます抵抗者面してしまう、今日もよくある現象をみてもそうであるきがする。