★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

平面

2024-11-18 23:49:16 | 文学


五月雨のふり出すより、いとしめやかに、窓よりやぶ雀の飛入り、ともし火むなし。闇となるを幸ひに、この男ひしと取りつき、はや鼻息せはしく、枕ちかく小杉原を取りまはし、我がよわ腰をしとやかに叩きて、「そなた百まで」といふ。 「をかしや、命しらずめ、おのれを九十九まで置くべきか。最前の云分も悪し。 一年立たぬうちに、杖突かせて腮ほそらせて、うき世の隙を明けん」と、昼夜のわかちもなく、たはぶれ掛けて、よわれば、鱧汁・卵・鰹・卵・山の芋を仕掛け、あんのごとく、この男次第にたたまれて、不便や明くる年の卯月の頃、世上の更衣にもかまはず、大布子のかさね着、医者も幾人かはなちて、髭ぼうぼうとながく、耳に手を当て、きみよき女の咄をするをも、うらめしさうに顔をふりける。

昨日の記事で、戸坂潤の、学会じゃなくて世のなかには学界があるんだみたいな文章を引用した。しかし、彼の言っていることは、むろん学者の一途な頑迷さあってのことなのだ。全体が学界じみてくるとそれは失われる。だいたい戸坂だって西田の弟子であって、それぬきで彼はありえなかったわけだ。

しかしこういう逆説の主張は、現実の制度や政治においては、大きな犠牲を出す。原爆で死んだ人間は幸いである、とは言えない。我々はやはり、そういう塞翁が馬式弁証法みたいなことを性急に言うのではなく、Blessed are those who mourn, for they will be comforted.とでも言うべきであろうか。わたしはやはりそういう思いを棄てきれない。ただし、よのなか、戸坂のような革命を夢みることをやめないことも重々承知でいかないと、思い込んだら視野狭窄に極端に陥る様々な人々に対応できない。それがめんどうだからといって、最初から悲しまず、上の一代女のように相手の男を殺してしまわずに、にこにこ友情を暖めれば良いというものではない。そういう平面的な平等化は、そもそも現実的に無理なのである。

身内にいるからいろいろ感じるのだが、官僚制と政治家との関係は一筋縄じゃいかない。普段からいろんな綱引きや駆け引きがある。しかし最近は、馬鹿みたいな評価システムを気にしすぎてるのか、どっちももう少しすっきりしたいという欲望が強いようにみえる。こういうのはたぶんだいたいの職場と一緒で、もっともっと難しい仕事の筈なのに合理化して頭が悪くなって行く。教員も官僚も政治家も人気がなくなり、確かに人不足なんだろうが、――これは長い間、これらの職業を実際よりもものすごく簡単なものとしてイメージしてきた人々のせいだ。で本人たちもそのイメージに侵されている。そこに仕事は全部「労働」だみたいなアレントもびっくりの決定打がきた。もはややる気が罪に昇格した。

職場の平面化は、逆にパワハラを生み出す。安富歩氏がむかし言っていたように、それは連鎖する一部なのだが、心配されていたように、――いろんな人がいろいろな場面で、パワハラについて「がんばっている人を能力や倫理上問題がある人が逆恨みで告発する」みたいなイメージを持つに至ってしまった現実はある。相手を組織上のしかるべき非人間性と見ないからそういう恨み辛みが果てしなく連続して見えてしまうわけである。かくして、人間がそうかんじたらハラスメントみたいな定義をふりまわされる結果となる。そもそも仕事が、仕事の平等な配分の連続性みたいな、チャップリンの工場のあまり違わないイメージから脱却せず、もっともっと判断が難しい合意形成を組織そのものの問題として議論しなかったつけがまわってきたと思う。

同じような平面化は、文学の業界にもある。最近は、文学的みたいなものを観念化し、それをいうやつはみんなナショナリストみたいなことを前提にしているひともいなくはないのだ。そんなの大学生でも高校生でもどこかおかしいなとおもうにちがいない。一部の学者が「むかしは文学を崇めていた時代があって」とか言い始めたときに、かくも×ってるのかと思ったが私も事態をなめておったわ。

宮崎駿は堀田善衛を尊敬してたとどこかで言ってたが、宮崎駿は堀田とは全然資質が違う常軌を逸した人であるからこそ影響をうけてもたいしたことがなかった面があると思うのである。堀田のような平面的で国際的な感じがする作家というのは、普遍的な感じがするが普遍的なだけだという可能性があると思う。戦後、そういう感じに「転向」した文学者も結構いたと思う。ただ、本人たちの現実はもちろんそこまでそういう「感じ」ではない訳で、だからその意味では、「普遍正義に則る奴は全員馬鹿」といっただけでは仕方がない面がある。

かかる平面は、結局、戦時下の平等の結果の延長である側面がある。メディアへの批判的リテラシー教育は、メディアを敵に、自分がみつけたエビデンスに固執するおひとを生産する役割を持ってしまう。こんなことはむかしから言われてた自明の理にすぎない。実際いまの学生はそういう傾向がある。メディアはフェイクだが自分は正しいという対称性が生じてしまうわけである。自分はもっと信頼できないという自明の理をスルーして教育するからそういうことになる。善を信じている教師や知識人が陥りがちな事だ。我が国の戦時下においては、敵国の言っていることは嘘なので、自分の国は、みたいな対称性が明らかに働いていた。最後のあたりは、国内の新聞の論調よりももっともっと純粋にがんばらなきゃみたいな感じもあった訳である。

こういう平面は、多くの教育現場で、多くの批判的タイミングが逃されていることからきているに違いない。生徒や学生に何か物を言うタイミングをまちがえると、言った意味はほとんどなくなる。小学生にいうのと同じである。その経験に裏打ちされた倫理的な反射神経が「面前で怒っちゃだめ」みたいなスローガンで潰された。あとでじっくり言い聞かせてもだめなものはだめなのである。ある者達(この場合は教師たち)への迫害による自己たちの平面的肯定は、否定と肯定が陰陽のようにバランス良く回転する。