
御膳一口含め奉り給へば、食き給ひつ。喜びて、脇息に尻かけて、掻き抱き上げ給へば、心知らひたる人ぞ、抱きつきて侍る。
おとど、 弓走り引きて、うち声作り給ふ。大徳たち近う候へど、加持高うもせさせ給はず。「弱き人は、それに惑ひ給ふものぞ」とて、みそかに読ませ給ふ。真言院の律師一人、いちはやく読む、いと尊し。おとど、「かかる折には、人多くな候ひそ騒がし」とて、御湯度々参りて、弦打ちしつつ、声作り居給へるに、寅の時ばかりに、いかいかと泣く。
以前、近所の赤ん坊は確かに「いかいか」と泣いていた。昔の人は正しい。
赤ん坊はなぜ泣くのか。まったくおぼえていないのであるが、どうみても人生最大の試練をくぐり抜けた後なのだ。母親の苦しみが、赤ん坊に乗り移らないはずはない。母親だって泣きたいところだ。しかし人間の意識がそうでない態度をとらせているだけだ。牛や亀でも出産の時に泣いている。
ピンチの時には人間も本当は泣いている。ピンチでないときには静かにしている。例えば、春になると、うちの庭では朝たくさんの雀が楽しそうに食事しているので、わたくし邪魔しないように静かに食べるのだ。
粕谷一希氏がどこかで言ってたが、昭和時代の人たちが走り書きやノートという表題を好むのは不安の時代以降だったから、と。そんなもんかなとはおもうが。。「不安の時代」は、欺瞞的なのだ。本当は不安どころではない。恐怖で泣きそうなのである。当時の若者達に「不安」だと言わせていた権力者たちの罪は重い。中野重治の「芸術に関する走り書き的覚え書」というのは、題名にもう覚え書きですらない感じが出ているが、中野だって泣きそうだったのである。この泣きそうなかんじは、日本浪曼派によく似ている。
全世界のプロレタリアート団結せよ→「プロレタリア独裁」の体のリンチ、は案外よくある過程に見える。しかし、いつも我々は「→」のプロセスが分からない。というか、プロセスは大概わからなくて、人々は物語をつくる。当時、そのプロセスは戦争となって顕れているようにみえたのかもしれないが、考えてみると、その「戦争」は、まだ物語的であった。それは、「帝国主義的戦争から革命へ」みたいな大系を背景にした物語があったし、「全体主義」と「民主主義」の戦いというのもあった。そういう物語にいじめられた体験から戦後急激に自分の絶対化に走る輩もいたが、これはほぼ病気であるから無視してよい。自分を世の中の一部としてなんとか抵抗する人々は、空を眺めてなにか雲のようなものに縋ろうとする。
そういう雲が断片的な走り書きになってあらわれるのである。それは、呆けてもいるし、ボケてもいるが、同時に自分に批判的であり、ツッコんでもいるのである。
学生の会話や出し物などから、ボケとツッコミすらなくなってきている。これは、極点にすごくアナーキーな病者や頭の悪い権力があるからだ。それらから身を守るため、安定を求めて多くの人々は批判もボケもない物語に走るのである。しかし、それだけでは、到底やっていけないのがよのなかである。卒業する学生達に言いたいのは、そういうことだ。三島由紀夫も言うように、我々は自分のことだけを考えているほどには強くない。何かのために行動するときに強くなる。そのうちに、自分に対しても適度にボケたりツッコんだり出来るようになるはずである。