
T「此奴は巾着切ですよ」
と言う。
浪人は「ナニッ」と遊び人の胸倉をとる。
遊び人の懐から半分覗いて居る浪人の紙入れの大写。
三次が素早く投げ込んだのだ。
ナニをするんだと抵抗する遊び人の懐から紙入れを取り出した浪人が、
「憎い奴!」と肩にかついで投げ飛ばす。
投げられた遊び人泡食って、
T「ナッナッ何かの間違いですよ」
と言いわけするのも聞かず、さんざん叩きのめす。見ている三次とお絹。
逃げ廻る遊び人と浪人の三枚目がかった立廻りがあって、浪人は結局フラフラになった遊び人の首筋掴んで引きずって行く。
後見送って三次とお絹。
お絹が三次に、
T「巾着切って嫌ですわね」
と言う。
――山中貞雄「恋と十手と巾着切」
上のようなものもコミュニケーションである。しかし、彼らが自分の能力を「力」だと言い始めたら、そいつは頭がおかしい。すなわち、コミュニケーション能力とかいうてる人間は例外なく怪しい奴だが、それはそれとして、そういう力とやらはコミュニケーションそのものによって鍛えられるのであって、国語や数学の紙試験にそれっぽいことまぜても、実際それは忖度=読解力しか試してない。コミュ力とはほぼ関係なしですがな。
我々はコミュニケーションを意識しすぎて、現実がその結果だと思い込むくせがある。SFアニメにどっぷりはまり込んでいると何がやばいかといえば、そこにあるよくあるボスと技術屋とのコミュニケーション――「あと10分でやれ」「無理です。あと5時間はかかります」「死んでもやれ」――という展開で、なぜか間に合ってしまう展開に慣れるからだ。誠になんじらに告げます、本当は5時間以上かかるから計画的にやれ、10分で間に合うわけないだろ死んじまうぞ。
それはそれとして、文章からなんらかの人生がにおってくることは確かにある。この前、昔の自分の論文の要約を昔順に書いてたら、論文からおれの当時の体調とか気分が窺われて悲しくなってきた。我々がものを見るというのはいったいどういうことであろうか。そのときに、文章や他人を媒介にしてみる他はないが、それがどのような媒介となるのか。
あれやからね、マイノリティに寄りそうをこえて彼らのみた世界でみてみるとか、それに対して物に即して世界を見るんだ、みたいなの――、蔵原惟人と横光利一のみかけの対立みたいなもんで、新しくも何ともないわけだ。しかし、だからだめだというより、まだ反復せざるをえないということだ。機械文明の「力」を自らのものとして見せつけられた我々は、他をコントロールできていないことに鈍感になりつつある。モダニズム以降、機械主義と評論は似ている。小説の読みの方が評論よりも難しいという通説があって、言いたいことはわかるけどそうでもないよなと思っていたが、そろそろほんとにそうでもなくなってきた。そもそも評論が論理によってできてるみたいなとらえ方だと、知ってるロジックをそこに当てはめるだけになる。小説とおなじく。むしろ、経験をベーシックに解釈するしかない小説のほうよりも、論理でわかると思われている評論の方に学生の読解のいまいちさがあらわれている。たのむから評論をネタにディスカッションやって意見が言えたのでよかったね、という授業はやめてほしい。他を批評することは、対象が強力に見えるほど、自らの力も過信されるものである。余りに危険である。