
その時ふと思いついて、長者ははたと膝を叩きました。また家来達に言いつけて、大きな日の丸の扇をこしらえさせました。畳二枚ほどもある大きな扇で、まん中に大きく金の日の丸を書いたものでした。それで雷の神を招き落とそうというのです。
さて、ある日、空にむくむくと入道雲が出てきて、それがふくれ上がり延び広がり、やがて空一面まっ黒になって、ざあーっと大粒の雨が降り出し、ごろごろと雷が鳴り始めた時、長者は庭の隅のあずまやの中に出ていきました。そして、庭の大木に仕掛けた網の綱を足でふまえ、いざといえばすぐにその綱を引っ張って網を落とすようにして、それから、大きな金の日の丸の扇をあずまやの軒から差し出して、空に向かって両手であおぎながら、雷の神を招き落とそうとしました。
扇には油が引いてありましたから、いくら雨に濡れても平気でした。ざーざーっと降る雨の中にも、金の日の丸はぴかぴか光りました。雨が少し小止みになって、雷が激しくなってきますと、ぴかりとする稲妻の蒼白い光りを受けて、濡れた金の日の丸が、なお一層輝いてきました。
雷の神は空の黒雲の中からふと、金の日の丸を見つけました。
「おや」
そして自分の好きなそのぴかぴかした赤いものにひかされて、そこへ落ちようとしかけましたが、仕掛けがしてあることを思い出しました。
「うっかりあすこへ落ちたら大変だ」
――豊島与志雄「雷神の珠」
映画「ノープ」というのはあまり評判がよくないようだが、円盤が実はクラゲみたいな生き物で、人を食いに来る、しかもなぜか動物を使ったショーをやってるひとたちの上に常駐していて、かれらだけを狙ってる、みたいな意味不明のところが面白い。豊島与志雄の話がこのあとどうだったかは忘れたが、そもそもわれわれの想像力は、目に見える範囲のものであって、いまみたいなやたら「世界観」みたいなカスみたいなものをともなっているのは限らないのだ。神話が民族や国家レベルに対応したものになるのは、なにか別のからくりが働いたときであろう。
その意味で、坂口安吾の「夜長姫と耳男」は、狭い村の話でしかも神話的であり人間的である。