
「しかそれさる事に侍り。但し翁が思ひえて侍るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍るに、衣裳やれむづかしきめ見侍らず、又いひ酒にともしきめ侍らず、もしこの事どもすぢなからむ時は、紙三枚をぞもとむべき。故は入道殿下のお前に申文を奉るべきなり。その文につくるべきやうは、翁、故太政大臣貞信公の殿下の御時の小舍人童なり。それおほくの年つもりて、すぢなくなりにて侍り。閣下の君すゑの家の子におはしませば、おなじ君とたのみ仰ぎ奉る。物少し惠みたまはらむと申さむには、少々の物はたばじやはと思へば、それあるものにて倉におきたるが如くなむ思ひ侍る」といへば、世繼、「それはげにさる事なり。家貧しくならむをりはみ寺に申文奉らしめむとなむ、卑しきわらはべとうちかたらひ侍る」とおなじ心にいひかはす。
道長に「自分はあんたのひいお爺さんに仕えた者であるから生活の支援よろしく」と手紙を書けばOKだと言っている翁達であるが、しらんがな、である。日本全国津々浦々に清和源氏の子孫は(でっちあげ家系図上)あふれかえっておるわけで、このような嘆願がまかり通る可能性があったことを示して居るのであろうか。
私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んで居るからである。人間移動展覧会と戯れに此を称えてよく此事を友達に話す。近代が人に与えてくれた特別な機会である。
――高村光太郎『人の首』
さすがいざとなったらお爺さんの亡霊が陛下のために脳内殺到する人だけあって、リアルな世界でも首が並んで見える。家系図の代わりに横並びになった首がスターウォーズばりに見える人はこの世に存在する。案外、わが國は、家系図か首の並列かが基本的な落ち着き先で、ときどきゴジラなんかに散らして頂く必要がある。
わたしはそういう意味で、ゴジラより「猟奇的な彼女」のほうがだいすきだ。なにより女優の美人度が違いすぎる。目に見えない清和天皇よりも韓国の美人女優である。
マンガ「英戦のラブロック」みたいな、全共闘のひとたちに人気でそうな、兄弟合体とか、反代々木とか、首揃えが好きなのがわれわれである。
知り合いの共産党員のことを考えてみると、場合によっては党の方針を超えてきちんと書物を勉強し、丁寧な革新活動もしてみたいな人は、――すごく文化保守的な傾向のある人である。常識的なはなしであるが、保守的な志向と変革しようとする力は両極端に働くけど同一物なのだ。ゲーテの植物以来繰り返されてきた構図であるが、どうもよのなか、そこまで単純になってなさそうなのが、――ゴジラや戦争で散らされてみるとわかる。だから、そういう機械的な同一性的動きがいやだからもっと違う形態はないのかみたいなのが六〇年代以降の問題だったのではなかったのかと思うが、結局、うまくいかなくて嘗て批判の対象だったはずの代々木的なものに回帰し、しかも理念に殉じましょうみたいなロマン的勘違いが起こるしまつだ。
もうかなり誰かが論じていることと思うが、戦争で都市が空襲で焼けたときには相当の本が焼けてるわけで、文化資本の問題はそこを避けて通れない気がする。それ以前に逮捕されそうでみずから本を焼いた人もいるが、それは措いておいて、散らされた我々は血の系図どころか知の系図、文化的持続を信じられなくなっている。
文化資本があるのかないのかしらないが、わたしの父は有象無象をふくめて年間大量の本を読んでる気がするし、今年の目標は300冊だということだ。かくして、わたくしは岩波文庫をあらかた読んでない人が学者になれるのか、なってよいのか、と今でも思っている。前にも言ったがわたしはまだ読んでないので学者とは言えない。父はもといなかの小学校教員だ。考えてみると、こういうもと欠食児童みたいな食いっぷりはもともとの文化的貧困から来る気がしていたが、そういうわけでもなく、たぶん戦前・戦後まだ残っていたマルクス主義者は死ぬほど勉強しないと死ぬみたいな強迫観念のおかげのような気がする。これに比べるとわたしに限らず、一代限りのいやみなディレッタントが増えた。