
世の中の人の申すやう、「大宮の入道せしめ給ひて、太上天皇の御位にならせ給ひて、女院となむ申すべき。この御寺に戒壇たてられて、御受戒あるべかなれば、世の中の尼ども参りて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継が女ども、かかることを伝へ聞きて、申すやう、「おのれを、その折にだに、白髪の裾そぎてむとなむ。なにか制する」と語らひ侍れば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後には、若からむ女のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひ侍れば、「わが姪なる女一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情なきこともぞある」と申せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひ侍る。やうやう裳・袈裟などのまうけに、よき絹一二疋求めまうけ侍る」などいひて、さすがにいかにぞや、物あはれげなるけしきの出できたるは、女どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍りし。
四〇〇歳の語る痴話げんかであって、いったい何歳のときのなのだと思わないではないが、――むかし、平安時代の女の人の興味は恋愛ばかりでしたみたいな説をレジメで紹介して怒られたわたくしのことである、恋愛についても歳をとることについても何も当時は考えていなかった。七〇年代生まれなんかは、二〇になるまで何も経験しなさすぎた傾向があると思う。
いまでもわたくしは、ファシストがそう来るならおなじ力で押し返してみたいな、上の痴話げんかのような発想をしがちであって、いわば昔からチャコティンみたいな主張をしてたし、いまもしがちなのだ。まったくもって書生じみている。
これにくらべて、現代の若い漫画家さんたちのほうが悲惨さを自覚している。大学一年生には是非『チ。』でも読んで頂いたらよいと思う。ほんとは小6か中1ぐらいがいいんだが。。ブレイクライブリー主演の「ロストバケーション」という鮫映画って結構恐ろしかったけど、あえて鮫視点でみるとほんと人間て何してくるかわからんやつで、恐ろしすぎる、こちとらただの食事なのに。――こんな風に思ってしまいがちなのは私が、七〇年代生まれで、「ジョーズ」にびっくりした経験を持つからであろう。その鮫は対決すべき暴力だったが、「ロストバケーション」での鮫はどうしようもない厄災にすぎない。厄災の側に立つなどありえないわけである。
現代の不倫も、厄災じみている。昨日、お風呂に入ってきて酢を飲んで細とテレビ観ながらまったりしていたら、小池徹平と篠田麻里子の不倫ドラマがやってて、この人ってAKBだっけ?ていうか不倫したからこの役なの?うそ知らんかった、小池徹平ってなんか常に変な役回りになってるななんかしたのみたいなことを話してるうちに、ドラマが終わった。不倫された夫は、隣の部屋からスマホで現場を押さえようと自撮り棒を伸ばす。――細との結論は、なんか日本てなんかすべて貧乏くさくなってきてるよね、だった。そうではない。不倫は現代においては災害なのだ。
こんな時代に於いて、知識人はつい書物の思い出にひたりがちになる。最近は、岩波文庫をもってるのは文化資本かみたいな、岩波茂雄や三木清がきいたら、いやむしろ逆だし、といいそうな話題がネット上で盛りあがっていた。私も一生懸命岩波文庫の記憶をたどると、はっきり覚えてないが、「君たちはどう生きるか」や「ジャン・クリストフ」かベートーベンの「音楽ノート」あたりが最初の記憶である。いうまでもなく、これは戦前の教養主義に関わる本だ。音楽に関係する書物については、小学生だったからなのか、音楽がこんなに神と関係あるのにびっくりしたような気がする。ベートーベンの「音楽ノート」は、停滞期と言われる第8交響曲以降から第9作曲に到る時期のものが主たる中身で、誰もが感じる「第9」だけがもはや音楽であって音楽ではないかんじがする理由が、ベートベンが悩んで文学やら甥の世話に接近した理由みたいに見えてくるわけだ。そのなかでインド哲学なんかもでてくるが、いまよんでみるとどう思うかわからないので、いま少し読んでみたら、人生が長く芸術は短いんだ神からの短い恩恵だ、みたいなことが書いてあるのが印象的であった。その点、第9はすごくがんばって長くしているかんじがある。
芸術は、芥川龍之介に言われるまでもなく、一瞬の恩寵である。学問はそれを長く見せかけようとする。ベートベンは自分でそれもやってしまおうと頑張ったわけである。だから『音楽』であるきがしないのだ。
確かにいまの多くの知識人は、家に円本や西哲叢書や改造文庫があったおかげで存在しているのであろう。本は自分が読むものでもあるけれども、子孫や赤の他人がいつか読むかもしれず、世界のどこかに置いておけばよいわ。戦争で都会の図書館が焼けるかもしれないから、地方にも置いとく必要がある。東京で焼けたものが中国でみつかるとかもあるからな。まあ、そうはいっても、あまりに家に本がもともとありましたみたいな人っていうのは、ネットが生まれたときからある現代人に似てどこか間の抜けたところもある気もする。飢餓感も必要だというのが実感だ。学問ぐらいしかやることがねえ、という環境が大事なのは確かだが、まあ読む奴は読むし読まねえ奴は読まねえからだ。
だからといって、知的な系譜を死んでも繋ぐのが我々の役目であり、その点、レポートや卒論の書き方をまず教えるみたいなやり方はナンセンスだ。そもそも実践的でない。昔長嶋茂雄が、「いまどきの選手は形にこだわりすぎてて、来た球をつよく打つというひとつのバットマンとして。。。」という批判を思い出す。それは、たしか王との対談だった。加えて、王が荒川とやった練習はいまは難しいんだと八〇年代初頭に言ってた。パワハラ云々の問題じゃないから、別の原因のことをいってたんだと思う。本当はいまだって、その原因のほうが重大なんだよな。パワハラ問題がそれを隠蔽しているところがあるのは無論である。別の原因とは、災厄に負ける弱い知識人やプロフェッショナルな人間の存在である。