伝てに承れば、法華経一部を説き奉らむとてこそ、先づ余教をば説き給ひけれ。それを名付けて五時教とは言ふにこそはあなれ。しかの如くに、入道殿の御栄えを申さむと思ふほどに、余教の説かるると言ひつべし』など言ふも、わざわざしく、事々しく聞こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思ふに、いみじうこそ言ひ続け侍りしか。
「幸ひ人」である道長にたいして、ここにいたるまでの余経(法華経に到るまでの四つの経)を説いてみようというのだが、お経を読んだことのある者なら、これがどこかしら「幸」の内実への意地の悪いはじまりかたではないかと勘ぐるはずである。長大な話というのは、それなりの意味がある。わたくしが以前から目指しているのはモンテーニュであるが、かれのエセーの壮大にくらべても「神曲」のそれほうが恐ろしいと考えるのが20世紀のモダニスト達であった。わたくしは必ずしもそう思わないのである。