★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

婿選抜

2023-01-28 23:56:43 | 文学


「なほ、正頼は、この藤中将こそいとほしけれ。世の常の人にもあらず、めでたき公卿の一人子にて、よろづのこと心もとなからぬ、この世の人の限りなくあらまほしきになむ。藤中将、勢ひはあるまじ。源中将は、いと目もあやに、一の者なりと見ればこそ、ふさひにはおぼえね。必ず、人々思ふところあらむと思へば。人の婿といふものは、若き人などをば、本家の労りなどして立つるをこそは、おもしろきことにはすれ。労りどころもなくて、本家の恥づかしくものせらるるなむ、ものしき。さるは、 いと見どころある人にこそあれ。この二人の人見る時にこそ、目五つ六つは欲しけれ」とのたまふ。

仲忠と涼、どっちが婿としてふさわしいか、財力とかひとがらはそれぞれだし、五つも六つも眼が必要だね、と言って居るわけであるが、そもそも、優れた二人で迷ってるんだからこれは悪くない状態である。完璧な二倍の競争は期待出来ない一〇〇倍よりも有効である。

いま日本で起こっているのは、倍率1倍をきる世界である。それがどういうことを意味しているかというと、我々の周りに居る決して政治家・教師などになってならぬ倫理的人格的な人間を選んだ振りをして包摂せざるを得ないということである。足りなくなった人間を補充しなければ、みたいな発想ばかり唱えられているが、昨今の事態は、定員を埋められない危機ではなく、選抜が意味をなくしたら本質的に終わる分野というものがあることに気付かないふりをしていることにある。

しかし、かような偉そうなことを誰もが言えないのも確かで、いい人材に来てもらいたいという気持ちはよくわかるけれども、まずはてめえがまともになってからだ、はなしはそれからだ、みたいなことが多すぎるからである。来る方にもそれはいえるわけだが。。

近代人の間には、自分自身を道徳的であると考える傾向が強くなってきている。というのは、彼らは自分の不道徳をますます多くの集団に押しやっているからである。
――ラインホルド・ニーバー『道徳的な個人と不道徳な社会』


人間の「関係」は、相互関係であり、高度な相互浸透的なやりとりで成り立っている。対話性だか他者性がないからといってディスカッションの練習をさせたら人の意見を受けいれない人間がたくさん出てきてしまったのは当然だ。対話が出来るようになるためには、抵抗がある文章に必死で付き合う練習したほうがはやい。相互関係は、個がまともで居られるネットワークでなければならない。それ以外は、ただの衝突であり、個の腐敗である。

郷土史や地方文壇でよくみられるのは、自らの孤立に自覚的であるあまり、地元の知の系譜に大仰なせりふをくっつけてしまい、かえって価値付けをあやまるという現象である。これは芭蕉や国学者や蘭学者にあったような地域間の知的ネットワークにおいても解消されなかった問題だ。やはり近くにそこそこのレベルの知識人がいないと孤立した知はかえって腐敗してしまう。心的には単純なはなしで、孤立は、知に対する「幇間」的な態度を醸成するからである。それを防いでいたのが、多くの学校の先生の存在だったりしたわけだ。遠くの知的な友人も必要だが、近くの何を言ってくるかわからない人の方が重要だ。同じ意味で、学校の先生は同僚の他に、自分の教え子たちのレベルも高い方がよく、それが近くにいるとなおよいが、――すべて実現不可能になってしまっていることである。というのは、孤立して駄目になってしまう人にとって知的な近しい人が必要なことは確かだが、それは彼らにとって、であって、若者がその駄目さに反応して地元を捨ててしまうのはおもてだってあらわれているよりも多いと思うからである。みんなが、「都会に憧れて」みたいな馬鹿みたいな理由で地元を捨ててるわけがないのだ。


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