
わたくしの家の庭では向日葵の葉っぱをいつものオンブバッタがずっと居着いて喰っている。わたしも生物の端くれとして、かれらがうまいといっているのがきこえるのでなんとなく満足である。
知り合いの戦中派が、五歳ぐらいまでにひもじいおもいをした人間はいつまでたってもいらいらした人間になるんだと言っていた。自分の子ども時代、自分の子どもたちをみて確かで、戦中戦後の暴力性はそのせいだと。ほんとかどうかはからんが、子どもがあまり飯をくえない状況は一過性の問題ではすまないであろう。わたしもわりと常にいらいらしてきたが、五歳まであまり食欲がなかったことと関係あるかも知れない。お腹はすかないがひもじいということはあると思う。太宰が似たようなことを「人間失格」で書いていた。
自分は、空腹という事を知りませんでした。いや、それは、自分が衣食住に困らない家に育ったという意味ではなく、そんな馬鹿な意味ではなく、自分には「空腹」という感覚はどんなものだか、さっぱりわからなかったのです。へんな言いかたですが、おなかが空いていても、自分でそれに気がつかないのです。小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、自分たちにも覚えがある、学校から帰って来た時の空腹は全くひどいからな、甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、空腹感とは、どんなものだか、ちっともわかっていやしなかったのです。
自分だって、それは勿論、大いにものを食べますが、しかし、空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません。めずらしいと思われたものを食べます。豪華と思われたものを食べます。また、よそへ行って出されたものも、無理をしてまで、たいてい食べます。そうして、子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。
太宰の主人公は「葉蔵」という名前であった。わたくしも、上の生き物を葉蔵と名づけよう。