★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

音楽の王国

2023-12-18 23:21:03 | 音楽


16日は楽聖の誕生日である。ベートーベンは、わたくしの中学までの「尊敬する人第一位」だったのだ。なぜかというと、ロマンロランの伝記とジャンクリストフ読んだし、フルトヴェングラーの演奏が狂ってるから、というベタベタな理由である。田舎者でよかったぜ。下手に都会に生まれていたら、YMOとかにはまり込んで村上龍とかを読んでいたかもしれない。

なぜ私は作曲するか?――〔私は名声のために作曲しようとは考えなかった〕私が心の中に持っているものが外へ出なければならないのだ。私が作曲するのはそのためである。
[…]「霊」が私に語りかけて、それが私に口授しているときに、愚にもつかぬヴァイオリンのことを私が考えるなぞと君は思っているのですか?
[…]私のいつもの作曲の仕方によると、たとえ器楽のための作曲のときでも、常に全体を眼前に据えつけて作曲する。ピアノを用いないで作曲することが大切であります……人が望みまた感じていることがらを表現し得る能力は――こんな表現の要求は高貴な天性の人々の本質的な要求なのですが――少しずつ成長するものです。
 描写 die Beschreibung eines Bildes は絵画に属することである。この点では詩作さえも、音楽に比べていっそうしあわせだといえるであろう。詩の領域は描写という点では音楽の領域ほどに制約せられていない。その代わり音楽は他のさまざまな領土の中までも入り込んで遠く拡がっている。人は音楽の王国へ容易には到達できない。


――「ベートーヴェンの思想断片」(ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ロマン・ロラン、片山敏彦訳)


我々は全体を考えずにキーボード(鍵盤、つまり上の「ピアノ」)をたたいてしまうので、結局彼の言う「音楽の王国」に到達できないことが多い。X(ついったー)や掲示板で我々は、ヴァイオリンやピアノを漫然と弾いているに過ぎず、全体としての心を表に出すことがない。さすが、楽聖である。我々の陥っている現象をもうすでに見切っていた。

例えば、やっぱり、勇気のだしようがないおおくの人間に、「構造が悪い」とか「人間より仕組みの改善」みたいな浅知恵をさずけるべきではなかったのではないか。全体が見えない上に、目の前の矛盾におびえてしまう我々は、上のような台詞は、あたかも全体構造が見えたかのような錯覚をうんでしまう上に、目の前にあるものが部分だということで矛盾に対する勇気を流産させるいいわけを作ってしまうからである。

もっとも、ロマンロランのつくったベートーベン像はわたしみたいな文弱に勇気を与えた一方で、なにか理想主義的な勘違いも生んでいたようで、最近はいろいろな研究があるようである。ベートーベンのウィキペディアみると、すごく金に関する記載がおおい。彼の生涯は金との戦いであった。また、最近の研究では、やつは案外プレイボーイだったみたいなものがある。まったく、モテない芸術家の夢を粉砕しおって。というか、考えてみたら、やつの曲ならモテるわな。。。

わたくしとしては、人を自由にする音楽とそうではないものがあると思う。むろん、ジャンルにこだわらないみたいな態度が自由をもたらすとは限らない。大事なのな「音楽の王国」であって、音楽ではない。

付記)同僚がいいこと言ってて、――最近のいまいちな文章は箇条書きとおなじ価値しかないと。文章にして生じる意味がほとんどない。論文にも言えることであるが、これは深刻で、キーワードとかパーツに実際に分割できてしまうものもある。本質的な意味で論理がないと言えるかも知れず、論理国語をつかった授業なんかもたぶんそうなる。


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