★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

粗野と視覚

2024-09-16 19:32:32 | 音楽
ライヴ★ブルックナー:交響曲第8番〔1887年第1稿〕(ルイージ指揮:トーンキュンストラー管)


ブルックナーの第八番って、老年の憂鬱を奏でていたら音楽が自走して勝手に元気になって行くみたいなもののくり返しだと思う。

だれだったかブルックナーの音楽は素人芸を出ておらぬと言っていたが、確かにそんな匂いはあるのだ。しかし習作交響曲や0番あたりを聞いてみると、シューマンやなにやらみたいな交響曲に憧れてた青春がみえるようだし、そのみちで成熟してゆくみちもあったんだとおもうが、彼はどこか農民がじゃかじゃかステップを踏んで踊るみたいな音楽が性に合っていたのであろう。素人と言うよりそれは粗野な音楽なのである。

このまえ学会でも研究者と話したんだが、中原中也とか坂口安吾のことばの下卑たダサさというのは非常に重要であると思う。町田康氏なんかはどことなく洗練を目指しているとこがあるから本性はかっこよさを追究する博学な音楽家で、それに対して上の人たちは単に粗野なのである。

それはどこか、言語を食い破った視覚的なものを思わせる。例えば、五十嵐大介『ディザインズ』、――絵がひたすらすごくてせりふが全くはいってこないが、その昔の肉体だ肉体だと繰り返す某「東京大学物語」とかがおそろしく言語的密林な作品なのと対照的である。さすがに時代は変わったとも言うべきであろうか?わたくしはもともと、肉体だ肉体だみたいなことを主張する芸術家や学者たちの、自意識過剰な観念論がいやなのである。それにたいしてひたすら視覚的であろうとするうごきの方が信用に足る。

「スパイの妻」のなかで「河内山宗俊」が流れる場面、最初は「秀子の車掌さん」を使う予定だったと監督が蓮實重彦と濱口竜介との鼎談で言っていた。たしかに秀子様でよかったと思う。わたくしが好きだから――というのもあるが、アイドル映画である「秀子の車掌さん」のほうが、視覚的であろうとする動きがすごくて、「スパイの妻」の後半のテーマが、観念的な決断を行ったらあとはひたすらものごとを無視出来るのか、というものであるのに即していると思うからである。

現実は粗野でリズミカルでもない。ブルックナーの三拍子なんか、足踏みであって、ダンスですらないような気がする。


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