雨は歇まない。
初め家へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれない程の降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷の響も歇んで、亜鉛葺の屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音も途絶えていたが、突然、
「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄の音がしだした。
「濹東綺譚」を読みたい気分だったのでつい徹夜して読んでしまいましたが、今日は雨であった。
坂出の大橋記念図書館で会議があったのでてこてこと出かけていった。風が強く、高松駅の前の交差点で傘がへしゃげる。
一昨日、ある古本をよんでたら、ある箇所からすごい量の傍線がひいてあって、なんとも引き方に統一性がないのでフシギだったのだが、文章の最後に赤で「古くさい言葉遣い」と書いてあった。なるほどと思ったが、これ明治の小説集だから仕方がないのではないだろうか――と思ったが、まあ、傍線がひかれたことばをみたら確かに古い言葉であった。優秀な読者であったかもしれない。
古い言葉が廃棄されて行くのにはいろいろな理由があるんだろうが、なにか事態をうまく換言できる言葉に負けてしまう現象もなかにはあると思う。三島由紀夫はたしか谷崎の「刺青」を、あとは技巧などを頑張れば良い「永久機関」の発明だとか言っていたと思う。これはうまく言いすぎの例だと思う。うまく言えばイイというものではないわけだ。三島由紀夫の言葉というのは、案外そういう新語を弄ぶみたいなところがある。そんなところは、蓮田善明なんかとはちがうようだ。

晴れていると、香風園も非常に明るい庭園にみえるのだが、雨の庭園もなかなか迫力がある。黒々とした物体が空に移って行くような気がする。「濹東綺譚」の岩波文庫の挿絵は黒々としていたから、こういう風景は好きであった。文化は風景に宿るのであるのであるが、結局、こういうお金がかかっているものがつくられることと関係がある。資本主義は、破壊もし創りもする。そのなかで人しれず恐ろしい差別や殺人が行われる。
初め家へ上った時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれない程の降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷の響も歇んで、亜鉛葺の屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音も途絶えていたが、突然、
「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌が泳いでるよ。」という黄いろい声につれて下駄の音がしだした。
「濹東綺譚」を読みたい気分だったのでつい徹夜して読んでしまいましたが、今日は雨であった。
坂出の大橋記念図書館で会議があったのでてこてこと出かけていった。風が強く、高松駅の前の交差点で傘がへしゃげる。
一昨日、ある古本をよんでたら、ある箇所からすごい量の傍線がひいてあって、なんとも引き方に統一性がないのでフシギだったのだが、文章の最後に赤で「古くさい言葉遣い」と書いてあった。なるほどと思ったが、これ明治の小説集だから仕方がないのではないだろうか――と思ったが、まあ、傍線がひかれたことばをみたら確かに古い言葉であった。優秀な読者であったかもしれない。
古い言葉が廃棄されて行くのにはいろいろな理由があるんだろうが、なにか事態をうまく換言できる言葉に負けてしまう現象もなかにはあると思う。三島由紀夫はたしか谷崎の「刺青」を、あとは技巧などを頑張れば良い「永久機関」の発明だとか言っていたと思う。これはうまく言いすぎの例だと思う。うまく言えばイイというものではないわけだ。三島由紀夫の言葉というのは、案外そういう新語を弄ぶみたいなところがある。そんなところは、蓮田善明なんかとはちがうようだ。

晴れていると、香風園も非常に明るい庭園にみえるのだが、雨の庭園もなかなか迫力がある。黒々とした物体が空に移って行くような気がする。「濹東綺譚」の岩波文庫の挿絵は黒々としていたから、こういう風景は好きであった。文化は風景に宿るのであるのであるが、結局、こういうお金がかかっているものがつくられることと関係がある。資本主義は、破壊もし創りもする。そのなかで人しれず恐ろしい差別や殺人が行われる。