★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

視点と視線

2023-11-19 22:52:43 | 文学
『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様をだに鏡をかけたまへるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇に向ひたるに、朝日のうららかにさし出でたるにあへらむ心地もするかな。また、翁が家の女どものもとなる櫛笥鏡の、影見えがたく、とぐわきも知らず、うち挟めて置きたるにならひて、あかく磨ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似たまへりや。いで興ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日延びぬる心地しはべり』と、いたく遊戯するを、見聞く人々、をこがましくをかしけれども、言ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、ものも言はで、皆聞きゐたり。

磨いた鏡には恥ずかしい自分の姿と同時にとても珍しい姿も映るものであるという。ここに、大鏡の作者の、現代の所謂「プラス面とマイナス面ガー」みたいなアホみたいな観点とは違う自然さがある。

たしかに近代になると、映る鏡自体が信用できなくなり、つい汚れたどぶ川なんかを見てしまうから余計醜いものがみえてくる。これは別に変形された醜さではない。ひさしぶりに「にごりえ」読んだらその出来のすさまじさに圧倒されて微熱が出てきた。そういうところまで読み手に跳ね返るのが近代の鏡の威力である。

したがって、我々は深淵を覗きすぎて、もう人間を聖なるものに喩えたりはしない。すなわち、アイドルをキリストに喩えるよりも勝新太郎に喩える人の方がぎりぎりヒューマニストなのである。そういう点で中森明夫は正気を保っているといへよう(「推しの力」2023)



我々はおそらく後鳥羽院や西行、芭蕉の時代より、対象とする作品にある視点を共有することに欲望を持つことになった。単にそれは真似ではない。より表現が映像化したからだ。もはやわれわれは大鏡にうつる天皇たちに視点を共有しようとは思わない。同情はするのだが。山口誠氏の旅行論なんかをよむと、旅を追体験と言うより真似と結びつけている。現代のアニメの聖地巡礼なんかも真似なんだろう。風景を見たいんじゃなくて視線を真似したいという。これは視点よりも視線である。視点自体が映像に沿ったものに変形したのだ。

文学上の「1987年境界説」みたいなものがあるが、「サラダ記念日」や「ノルウェイの森」の年である。このとき文学を囓ってごく初期だったか、ある程度読みあさった後だったかによって、人としてなにか違っているように確かに思えるのは、上の問題に関わっている。


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