★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

群衆時代のフィクション

2023-11-08 23:15:39 | 文学


『そこにおはするは、その折の女人にやみでますらむ』と言ふめれば、繁樹が答へ、『いで、さも侍らず。それは早や失せ侍りにしかば、これは、その後相添ひて侍る童なり。さて閣下はいかが』と言ふめれば、世継が答へ、『それは侍りし時のなり。今日もろともに参らむと出で立ち侍りつれど、わらはやみをして、当たり日に侍りつれば、口惜しくえ参り侍らずなりぬる』と、あはれに言ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。

再婚した相手を「童(わらはべ)」と呼ぶ爺である。これに対して、自分の妻が「わらはやみ」であると返す爺2である。二人は語りつつ泣いているようであったが、涙は落ちていなかった。洒落をいいつつ涙は落ちない泣き。しかし情緒的でない。

「大鏡」は爺1・2に対する侍の鼎談方式だが、これに観衆が加わったりするとおそらく様相は大きく変わる。近代はそういう情況である。田山花袋「蒲団」には独特な場面の煽るような入り方があるが、ほんとは(――ではないが)、時雄と妻と芳子の鼎談でもいいはずなのである。しかし、この語り手の目は、彼らの三人ではなく平凡な群れとしての読者に向いている。文章を上演しているのだ。もう何回めなのか忘れたが、読む度にけっこう違った印象を受ける小説の一つであるにもかかわらず、この語りは一体なんだろうと気になって時々作中に集中しきれない。

「蒲団」当時の読者たちはどうだか知らないが、――コミュニケーション重視とかアクティブなんちゃらとかを教育に導入することの現実的な意味を計測できないアホが結局醸成してしまったのが現代の群衆である。導入されたのは学説というより政策なのである。だからそれはきわめてレベルの低いものとなって広まってゆく。コミュニケーションは対話というより、もっと積極的に群れる許可を与えただけであり、倫理の堤防として機能していた教師の暴力性を去勢してしまった。

教員志望の大多数が孤立がいやで群れるのに長けている状態だとしたら、一人一人をなんとかする教育を目標にしたとしても、彼らは本能的にそれをいやがってる状態だ。物理的にも非物理的にでもどっちでもいいが、――引きこもっていたら群れ力抜群みたいな教師が説得に来るとかおぞましいわ。また、そもそも頭が良くてやさしくて丁寧でみたいな生き方を一見しているような人でかなり卑怯者というやつはいるものであって、そういう輩があまりに卑怯者にならないために、暴力的な荒っぽい人というのがいたのかもしれないのだ。暴力が禁じられて世の中がどうなるかはそういう意味でも自明の理である。

「蒲団」の中年作家はいつも、主観と客観のよりあわさったもののなかにいるようで気持ち悪く「運命の圏外」にいるみたい、と言っていた。時雄が芳子の「師」であったことは案外重要である。結局、教育がファンタジー化しはじめている事態を花袋は直感していたではなかろうか。芳子のような『若さ』から疎外されたという物語をとりながら、「圏外」問題を問題としては考えられなかったのかもしれない。最近のサブカルみたいなものは、物語の作り手も享受者も『若さ』から疎外されていることを隠蔽している。それは結局、顔の見えない群衆読者を傷つけられないからである。このまえの京都アニメーション事件も、たぶんこういう問題と絡んでいる。

「エヴァンゲリオン」なんか、30代の天才オタクが思春期を描いたのが成熟して親父を主人公にした最新作に到ったみたいにみえるが、最初からわりと親父の感性の作品だろうと思う。そもそもこの監督の特徴は、爛れたメロドラマをテンポよくやる才能のような気がするし。。。

「蒲団」で書かれているものは何かと考えていたら、――ネット上でまたアイドルか何かの「熱愛」が報じられていた。芸能人が「熱愛」ばかりしてるのは、「恋愛」禁止だからではないだろうか。これは冗談ではないのだ。時雄も恋愛はしていない。


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