
大犬丸をとこ、『いで、聞きたまふや。歌一首つくりてはべり』と言ふめれば、世継、『いと感あることなり』とて、世継『うけたまはらむ』と言へば、重木、いとやさしげにいひ出づ。『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり』と言ふめれば、世継いたく感じて、あまた度誦して、うめきて、返し、『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも今様の葵八花がたの鏡、螺鈿の筥に入れたるに向ひたる心地したまふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気つきて、をかしく、まことにめづらかになむ。
古い鏡がいまどきのやつよりも明るい、みたいなせりふはそれほど珍しいとも思えないが、これを「したり顔に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ」と思った語り手が、爺の得意顔を反映しておかしい。彼らの話は鏡である。聞いている人間が喜べば話はおもしろいものということになるであろう。平安時代にはおもしろい話が多すぎたのか、読者の喜びが文章の世界を覆ってしまっていたのかもしれない。むろん、これは捨て去るものが多いということであり、暗黒時代の始まりなのである。
例えば、バーンスタインのチャイコフスキー管弦楽集、あまりに勢いがあり過ぎて、ソ連と米国に挟撃された大日本帝国万歳みたいな気分にさせる。この感想は、私の形式的妄想に過ぎない。しかし音楽は、そんな関係なさそうな「意味」を持つことすらあり得る。人間のやることである、どこかに通じ合って、つまり鏡に映ってしまうのである。
さきほど、Jアラートがなった。将軍様の國がなにか飛翔体をとばしたそうである。テレビの画面は、どことなくナチス風味を感じさせた。