★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

限界点へのロックンロール

2024-04-13 18:39:47 | 文学


 黒人のヒットを白人がうたいなおす作業は、この頃、さかんにおこなわれた。白人社会のラジオに彼らが登場できずにいた事情があり、また、黒人のオリジナル版は、あまりにも強烈で新鮮すぎたこともある。白人による水ましのつくりなおしロックンロールが多すぎるので、ラヴァーン・ベイカーが一九五五年、法的な規制を求めて訴えて出た。

――片岡義男「エルヴィスから始まった」


自分の限界がどのように生じるかを知る教育を若い頃うけてねえと、やる前の仕事そのものが恐怖の物体と化しプレッシャーとなってしまう。で、そこで、5時に帰る権利が都合良くあるもんだからそういう自分の心理的カラクリを積極的に忘却する。合理的に時間までにきちんとやるみたいな心構えは「仕事」を得て体を長く持たして家族を養う「労働者」になってからでよい。しかしいずれにせよ、我々は自分の身体と心を合理的に管理できない。できると思っているのは、人に尻を拭かせている馬鹿だけだ。普通の才能の人は自分の限界をパッションの限界点に於いて知らなきゃならない。最初から仕事をできるふりをしてもしょうがない。即戦力を求められているからといって、自分が即戦力かどうかはわからない。どうせ違う。

これは、まじめな人の話で、はじめからさぼろうとしているカスにとっては、権利は、為政者における法律のように、いつも濫用にしかならない。こういうのと戦うのは、法律に則しているだけではだめだというのは当たり前である。

考えてみると、自分の骨盤からパッションと音が出てくるみたいなロックンロールは、そういう限界点を知る物語をそこここで生産していた。不良の音楽と言われながら、正しい働き方の準備をなしていたわけである。

むかし不良女学生のロックバンドで「ザ・ランナウェイズ」というのがあると聞き、聴く前から赤面しながらきいてみたらコーラスがきれいなちゃんとした音楽であったのでほんと恥ずかしかったが、おれのせいじゃねえのである。「THE RUNAWAYS」を「悩殺爆弾〜禁断のロックン・ロール・クイーン」と訳した誰かのせいである。なんなんだよこの訳わ。

映画「ランナウェイズ」というのは一〇年ぐらい前に上映されていた。天才子役のダコダ・ファニングが、クスリのやり過ぎで自己崩壊したボーカリストをやっていた。しかし、彼女の限界点の管理――自己管理の失敗だけではない、物語の上では、バンドの崩壊は日本公演と日本の写真家(S氏か?)によるボーカルの性的な写真だった。日本でのロックンロールの熱狂の仕方にはなにか独特なものがある。やっぱ盆踊りなのであろうか。

ボーカルが下着同然のかっこでステージにあがったのは、日本人の写真家に性的写真をとられたあとのような物語になっていたから、なんというか、日本人が望むかっこでやったったみたいな感じに思えた。「アーロン収容所」で、西洋人は東洋人の前では性的な行為をやっても大丈夫というような記述があった気がするが、そういうものを想起した。

一方、――もう研究がたくさんなあるのだと思うんだが、白人のロック、ビートルズや何やらが東洋人の観客にふれた結果どういう変容があったのかなかったのか。。案外、人類学者みたいにその音楽の原始的なものを勝手に感じてる可能性もあるとおもう。


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