★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ストライキと夏休み

2023-09-01 23:02:31 | 文学


 私は、だいたい、ストライキという手段は、好きではない。社会生活に於ける闘争ということを好まないのだ。闘争ほど、社会の敵なる言葉はない。
 私は、資本家(国家でもよい)と労働者の利益分配が生活の最も重大なものとなっている今日、簡単の労働法規というようなもので、この重大な生活問題を社会の片隅で処理しているのが間違いだと思う。
 私は労働問題審判所というものを設け、最高裁判所、内閣、この二つと並べて、三位同格の最高機関とすべきだろうと思う。今日、裁判所に、地方、中央、完備した組織ある如く、労働問題の審判にも、全国に完備した組織をもち、これを公正、最高、絶対の機関とし、ストライキという好戦的な手段を社会生活から抹殺すべきだと思う。
 賃金問題は今や個人の最大の生活問題となっているのに、これをストライキという如き素朴、好戦的な方法にゆだねて、合理的な機関を発明しないのは、不思議である。


――坂口安吾「戦争論」


せごうと西武が自分たちがうっぱらわれるというのでストライキをやっている。デモだけでいいんだデモができる社会になるからだ、とは柄谷行人の意見であるが、ストもストだけでいいんだストができる社会になるからだといへよう。ところで、ショルティのマーラーの六番はもうデモ行進の音楽である。ロマン派の後期には、1812年や軍隊行進曲のかわりに、デモの足音が音楽から聞こえるようになる。音楽が機械としての我々の群衆性によりそいはじめたのである。対して、安吾が群衆の「好戦性」に対して「社会」を対置しているのは、常識的な良識だ。ストはだいたい群衆の沼と化して人間に対する社会の役割を果たさなくなった組織や社会に「スト返し」を行っているに等しい。安吾は、もうそれは戦争や殴り合いとおなじだと敗戦後に言っているのであった。

地震や戦争の用意ばかりして、生きることを放棄した我々の生は、もう社会性を失って久しい。しかし、文化はいつも残り続けるのが不思議だ。

今日は、朝から多くの小学生の群れが、なんか段ボールの工作みたいなものを担いで登校していた。夏休み明けというのは、一種の文化祭的な祝祭じみている、わりと寝不足だし。夏休みは、戦争とは別の意味であるがそういうもので、それの終焉は敗戦に似ている。しかしそれは、我々の多くがあまりに日常に対してサボタージュをかけているからである。わたくしは根っからの労働的なやつであるから、大学までは夏休みの宿題なんか毎日こつこつとやってて、われながら休み末期ものんびりと完璧だったが、――かんがえてみると、小学校低学年の頃は、プール(こわいから)に全然行ってなくてそれがばれるのが怖かった気もする。かようなわたくしが夏休み全然仕事できてないのは、つまり落ちこぼれたか、というわけだ。

まあ小学校の時も一生懸命だったのは虫取りの他には日記とか自由研究?だったし、中学の時は三年生の時に音楽に加えて木彫とかにはまり込んでしまい、先生たちが「ああいうあれはあれ」と五教科もそこそこがんばっていたのに問題にしていたようで、とにかくこの世は面倒だ。

終戦前の横溝君は文章がヘタで、この雰囲気ごのみ、怪奇ごのみ、読むに堪えない作品ばかりだったが、終戦後は見ちがえる成長ぶりで、差が激しいので、いささか呆れる程である。年期をいれて、こんなに生長するということは尊いことで、後進に勇気を与えることでもある。

――坂口安吾「探偵小説論」


これは坂口安吾だけが思ったことではない。横溝正史なんかは、夏休みを終えたら、急に文章が上手くなっていた。西洋にとっての第一次大戦のように大量死を経験したからだ、みたいな意見もあるが、――やはり、休み明けですっきりする人間というのがいるのと思うのだ。


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