★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

問題は問題を生んで底止する所を知らないのです

2015-03-19 23:59:05 | 大学


「問題は問題を生んで底止する所を知らないのです。」(鷗外「現代思想」)そのことを知らずに、「使える知」を求めることは、必ず知の鎖国への欲望に行き着く。我々はそういうものをそこここに見出すようになった。学者は、論文に追いまくられて、しかもそれが楽しい人もいるから、辛うじて、問題の問題を生む現場に留まる場合も多いが、論文というのは一つの底止には違いないので、案外危険な人も多い。論文書きとして有能な人の中に。底止を多く経験していると、本当に底止してしまうのである。

ネズミにゃ世間が狭くなる、胸に恋でもあるように

2015-03-18 02:54:19 | 思想
知識よりも実践だ、とか頭が腐ったことを言っているから、八紘一宇とか日本書紀とか和文とかについて基礎知識がないやつが国会でしゃべるようになるのである。問題は、無知ではなくて、知識に対する姿勢である。「知識」を得ることは、活用される以前に、それが非常に不確かなものであることを知ることであって、森の中で迷うような状態を認識することである。そのことを知らない人間がしゃべりたがり、自らの転向に気付かない。

朝日新聞の飛ばし記事は虚構新聞も東スポも越えた

2015-03-17 01:06:44 | 思想
「ホワイトデーのお返しなかった」 夫の首締めた疑い
http://www.asahi.com/articles/ASH3J4D6XH3JPTIL00X.html?iref=comtop_6_02

どういうこと?

下関市長、不合格の論文を今度は私大に 「博士可能か」
http://www.asahi.com/articles/ASH3J4GVBH3JTZNB00X.html?iref=comtop_list_pol_n05


……????

三原じゅん子氏「八紘一宇は大切な価値観」予算委で発言
http://www.asahi.com/articles/ASH3J6R68H3JUTFK00N.html?iref=comtop_6_04


……いや、ちょっと、まて……えーと

深い弧線の中程に立つてゐた

2015-03-16 23:16:12 | 文学


南は、右手の岬の鼻あたりにあたる。
 あの位置で、斯う南を指して来たならば此処がもう陸の行き詰まりかと思つてゐたが、これでは未だ後七哩ちかくまでも走らなければ、南を指す陸の尽きるところへは達しない――そんな馬鹿なことを思つて、変に考へ込んだりしてしまつた。
 それもその筈だ! あんなに湾曲してゐる道を、あまり曲つてゐないつもりで駆け通して来たのだもの! 丘の上から見ると渚の深い弧線の中程に立つてゐた。

――牧野信一「駆ける朝」

最後の砦

2015-03-14 19:15:13 | 映画
昨日、「かぐや姫の物語」というのがやってた。もとの「竹取物語」との違いは明らかで、山の民の登場とか、姫の帝への態度が恐ろしく違うし、月から来た人たちが来迎図みたくなっているから、まあ……そういうことだ。

山の民は山の民であるし、帝は「源氏物語」を想起するまでもなく色好みで勢力拡大を図る人たちの象徴で、おじいさんおばあさんはとりたてて何も言うことなし、五人の求婚者は問題外、月の人たちはなにやらポップな音楽を奏でていたが宇宙人であっても仏関係者であってもいずれにせよ人間じゃねえ、かぐや姫は流刑地送りになったひと――だから、とりあえず、取り立てて特筆すべき者は誰もいないというのが、このお話である。「竹取物語」もそうである。歌物語は、歌によってクソみたいな現実を救う話であり、我々の心はそこにしかないのであった。この話でも「歌」がかぐや姫を人界に追放し、人界の心を理解させるものであった。和歌でひどさを救ってきた我が国の文化を動く絵巻物にしたてたのが、このアニメーションではなかろうか。

そういえば、萩尾望都の「ラーギニー」も似たような意味で歌が重要だったが……、それは我々の弱さとだめさと裏腹である。我々はかぐや姫とおなじで心なんかしょっちゅう簡単になくしているのであって、歌がそれを救っている、……ということになっているのが、我々の国であった。

やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける 力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり

が、しかし、この作品のなかで唯一、ちゃんと生きてそうなのが、パタリロみたいな顔をしているかぐや姫の付き人である「女童」で、かぐや姫も含めてみんな人でなしであるのに対し、ちゃんと仕事をし姫の心も分かっている。



最後、姫を引き留めようとがんばるみんなが、来迎図の人々の超能力でへたっているか泣いているだけなの対し、彼女はガキどもをいつの間にか組織し、かぐや姫を人界に結びつける歌を歌わせて、姫を月に帰さないように抵抗を試みるのである。

しかし武器より歌を、大人より子どもを、といったテーゼを読み取るべきではなかろうて。

わたくしは、ここで思い切って結論を出そうと思う。

我々の最後の砦は、帝でも金持ちでも被差別者でも庶民でも少女でも兵士でも自然でも仏でも音楽でもない。「女童」、つまりお手伝いさん乃至は女公務員であろう。

……そんなはずはない。歌もなにもかも信用ならない。

はい旦那様

2015-03-11 16:37:20 | 文学


昨日、録画してあった「ダウントン・アビー」というドラマの最初の10分ぐらいを見た。のであるが、なんだかわたくしは、貴族たちより使用人たちに――全く話の内容とは関係なしに――感情移入しているようであった。そういえば「小さいおうち」にもそれを感じた。それはわたくしが左翼思想にかぶれているからでも、メイド服がかわいいと思うからでもなく、奴隷根性、というか「はい旦那様」とかつい言ってしまう習慣になんとなく心地よいものを感じるからである。実に不思議である。運動会とか、起立気をつけ礼などに虫酸が走るくせに、なぜだろう……。

「五輪教育」(笑)というものに反応し、「順法精神や友情の大切さ、国際性などを教えられる。多くの子どもが体験しているスポーツと関連づけると、より具体的にイメージできる。『グローバル人材』の育成にも役立つ」(http://digital.asahi.com/articles/ASGCR5FF6GCRUTIL020.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_ASGCR5FF6GCRUTIL020)とか言っている、わが母校の教員がいる。新聞記事だから、実際にこんなすかすかの発言だったとは思わないのだ。が、我々の社会の全体主義が、こういうアホな発言の自由という開放感の下にあるかぎり、どうも「はい旦那様」の方に、自立した個人を感じるのである。

漱石の「私の個人主義」にやや不満なのは、上記の感覚が引っかかっているからだ。……たぶん、わたくしは殉教の傾向があるタイプなのであろう。

そういえば、ショスタコーヴィチの「呼応計画の歌」なんか、かわいい少女が歌っていると素晴らしいと思うが、おじさんがうなっていると「このスターリニストがっ」と感じる。……非常に危険なわたくしであることだ。

小さいおうち

2015-03-10 18:37:52 | 映画


年休をとって「小さいおうち」を観ました。こういうお話にわたくしは弱い。この映画の主人公の「女中」に限らず、我慢ばっかりさせられた魂はいまでも誰一人救われていない。無論、死んだら絶対に救われないことを我々の国はもっと真剣に考える必要がある。祈って何になる。

そういえば、おばあちゃんになった倍賞千恵子の発音を聞いていて思うのは、鼻濁音である。先日、現在でも五人に一人しか鼻濁音を使っていないことがニュースになっていたが、非常にショックである。わたくし自身は、最近の学生に、『「が」でなく「な」と言っているように聞こえた』と言われるほどの、また、退職間際の教員に「あなたの教授会報告での鼻濁音は完璧だな」と褒められるほどの、鼻濁音の使い手であるが、知らないうちにそんな少数派になっていたとはびっくりである。そういえば、合唱部でも鼻濁音はうるさく指導されたような気がする。だいたい、語頭以外の濁音を鼻濁音にしないでどうやって発音するのか、そっちの方がわたくしにとっては難しいのである。

倍賞千恵子が小さくなって泣いている姿を見て、わたくしはドラマの内容と関係なく悲しくなった。


人間が**にできている

2015-03-10 17:18:08 | 思想


「人間が**にできている」という古風な言い方が好きである。「人間が馬鹿にできている」、「人間がのんきにできている」など……。人間力とか、コミュ力とか、人間は権力の行使によって形容されつづけなければいけないものであろうか。