★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

若宮神社を訪ねる(香川の神社125)

2017-11-24 19:22:55 | 神社仏閣
仏生山公園の近くの若宮神社。祭神は、軻遇突智命。『日本書紀』の表記で、カグツチの神である。火の神なので母イザナミの陰部を焼き、殺してしまった。で、怒った父親に殺された不運の息子であった。しかし、そのおかげでカグツチの死体などから二十近くの神が生まれている。原爆で憲法9条が生まれたようなものである。



鳥居は、平成十六年。



拝殿

 

碑によれば、

「昔、この地域を百相村字荒と称し、周囲は草木生い茂り、当地不可解な火災が再三発生。危険を感じ文政十一年十月火伏の神として知られる、静岡県秋葉神社より御霊を受け、鎮火祈願の為、当神社に創祀せり。」




本殿



鐘がある。よくわからんが、火事の時の知らせのあれかな……



地神さん。玉垣は平成十五年。もともと昭和十五年(皇紀二千六百年記念)創祀らしい。地神さんの起源も案外新しいのも多いぞ……



冬になってきましたなあ……

住蓮寺池周辺のお地蔵さんを訪ねる(香川の地蔵19・20)

2017-11-24 18:56:04 | 神社仏閣
住蓮寺池の堤には様々に。



工事記念碑の横には……



龍神様かっ。すごいアクロバティックな姿勢を……。無理しないでも、ほれ、池はこのような有様でございます。

  

わたしゃ、どこかの県立運動競技場か何かと思いました。というか、冬だから水抜いてんでしょうね……







お地蔵さん、香川の渇水を救い給え……





救い給え……

雙石神社を訪ねる(香川の神社124)

2017-11-24 18:39:54 | 神社仏閣
多肥上町。住蓮寺池の北にある。堤防の下方にみえる。



鳥居は昭和三十一年。

 


拝殿。

『香川県神社誌』によると、

「一對の大なる石を御霊代として奉齋すといふ。口碑に依れば往昔住蓮寺池構築の際同形同大の一對の霊石出でたるに里人神意を感じこれを御霊代として祀れるものにして、今に此の附近の免場を妙同石(めうどいし・夫婦石の意)と稱するは此の雙石に由来するものなりと傳ふ。」

やはり、昔の人はわたくしとおなじく、石と人間の区別がつかない人たちだったようです。あるいは、池をつくる時に夫婦を生け贄に…… ということで祭神は、八衢比古神、八衢毘賣神。



地神さん。

榺神社を訪ねる(香川の神社110-5)

2017-11-24 18:14:25 | 神社仏閣
いざらこざらの少女像を見忘れたので、みにゆきました。



おられました。なんと、グーグルアースでは、この少女の像の顔にモザイクがかかってました。石と生身の人間の区別がつかない、あるいは、あまりにも由縁がやばいものにはモザイクを自動的にかけてしまう。あるいは、この少女像は生きている……。いろいろ可能性が考えられます。



この像が古くなったというんで、いまお金を集めて作り直そうとしているようです。さすがに狛犬みたいに「古くて味がある」「足もげた、さすが狛犬、立っている」、「キモカワイイ」などという勝手なことは言えません。通り魔殺人を行った当時の関係者の魂が地獄で苦しみ続けるように少女もまた甦ろうとしております。絶対に、萌え系の美術関係者には依頼して欲しくはありません。いまでも十分かわいいからです。わたくしはグーグルに似て人と石の区別がつかないようです。でも二次元と三次元の区別がつかない人よりはマシなのではないでしょうか



神社の説明とちょっと違うな……

仏生山町の水神さんを訪ねる(香川の神社123)

2017-11-24 17:50:44 | 神社仏閣


円光寺の近く。

案内板に曰く、

「昔、法然寺の門前町仏生山の表通りには、参詣人ののどの渇きをいやすために多くの井戸が用意されていた。この場所は、江戸時代の町年寄中條本家の屋敷跡だけに、中條家が井戸を掘り、水を守る神をまつって屋敷神としたと思われる。なお、こうした表通りの井戸は水道が普及するまでこの町の人々の暮らしを支えてきた。」

神社には、もともとこういう屋敷神だったものが多いのである。屋敷神にもいろいろあるが、家の格を示す物も多かったはずである。高松城内にあったとされる数々の神社だって、根本的に屋敷神なのであるから、市内の数々の神社だってそういう扱いになるかも知れず。

生目八幡宮を訪ねる(香川の神社122)

2017-11-24 17:30:45 | 神社仏閣


仏生山町。「生目さん」である。祭神は、藤原兼清。



案内板に曰く、

「屋島合戦の「しころ引き」で有名な悪七兵衛景清は、源平合戦に敗れたのち視力を失い、琵琶法師となって諸国をさまよったと伝える。」


景清物が出来てしまうほどの、みんなが大好きな景清さんである。屋島の合戦のとき、【狸】那須与一【のおかげ】のまぐれ当たりで調子に乗った【ちび】義経【だけどすごい】が、「あれもやってしまえ」と言って与一に人間まで打たせたので、なんだか錯乱した両軍がざわざわしていると、真っ先に源氏に突撃していったのが【正義】藤原景清【の味方】である。ある敵の大将の兜の錣を引きちぎって、

その後兜の錏をば、薙刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を上げて、「遠らん者は音にも聞け、近くは目にも見給へ。これこそ京童部の呼ぶなる、上総の悪七兵衛景清よ」と名乗り捨てて、御方の楯の陰へぞ退きにける。 平家これに少し心地を直いて、「悪七兵衛討たすな、者ども、景清討たすな、続けや」

確かに、こういう乱暴者というか突撃馬鹿はいつの世にもいるはずであり、最近はどこに行ったことやら、活躍の場を失っていると思われます。こういう輩にスカしたコミュニケーション能力を要求するからいじめが発生するのでしょう。それはともかく、景清は壇ノ浦でも死なず、一説によると、「源氏の世の中を見るのはイヤだ」とか言って、自分のめんたまをくりぬいて寺田か神社に奉納したとか……。申し訳ありませんが、完全に狂ってます。こんな誠実なテンションでは、日本はアメリカの占領下で全員自決しなくてはなりません。また一説によると、壇ノ浦以来、頼朝の暗殺を何回も試みてつかまり、どこかに幽閉されていたとか……。これも申し訳ありませんが、完全に狂ってます。こんな誠実なテンションでは、日本人は、占領下で一億総テロリストになってマッカーサーを狙わなくてはなりません。しかし、そんな奴はほとんどおらず、ちゃんとアメリカ文化の良いところをまねして「えいじゃないか」という感じで今に至ります。実際、景清もどこかで戦死したか、何もせずに平穏に暮らしていたのでしょう。目なんかほっといても悪くなりますよ……。

そして最期のとき、「自分を神にまつれば眼病に効き目を表すであろう」と言ったということで、目の神様として人々から信仰されている。内部には「かべきよさま」と呼ばれる古い木像と神鏡がまつられている。

自分を祀れとは最後まですごいお方です。残念でした。いまは眼科というものがあり……しかし、わかります、目の病気というのは、すごく絶望感があるのです。

  

真言が拝殿にかいてあった。「オンタカセイセイタカセ高山ソワカ 目をなでながら(三回)」

昭和十三年の『香川神社誌』には、応神天皇を祀っていることになっている。八幡ということになってるからね……。

中津神社を訪ねる(香川の神社121)

2017-11-23 19:41:58 | 神社仏閣


月夜の大学を出る。

  

中津神社が鶴市町。昔の弦打村の一部である。菊池寛の『義民甚兵衛』の舞台はこの村である。

 

夜中の狛犬さん(大正十三年)。鳥居は大正十二年であった。

 

『香川県神社誌』に載っている「中州神社」というのがこの神社かと疑われる。再建が大正十二年とあったからである。祭神は、大国主と年三柱(大年神、御年神、若年神)か。



本殿。



地神さん。


藤作 加担の村が、二百十二カ村になったぞ。夜更けにお城下へ押し寄せて、御家老達の家を叩き壊す云うとるぞ。はよう、用意せい。ええか。分ったか。
甚吉 分った。分った。
(藤作、馳け去る)
おきん(狼狽しながら)どうしょう。どうしょう。
甚吉 仕方がねえ。わし行くぞ。
おきん 阿呆云うな。後嗣のお前に万一のことがあったらどうするんじゃ。われは行くんじゃねえ。
甚三 兄貴は、家に居るがええ。わしが行くだ。わしが。
おきん われも行くでねえ。加担して、後で打首にでもなったら、どうするだ。
甚三 そなな心配がいるもんけ。何万と云う人数じゃもの。ただ附いて行っただけで打首になんか、なって堪るけい。
――菊池寛「義民甚兵衛」



フラッシュなしで狛犬さんをアップで撮ってみる……

石清尾八幡宮を訪ねる2(香川の神社109――ちょっと侵入編)

2017-11-22 17:56:14 | 神社仏閣
今日は朝から公開講座の見学→卒業論文大発表会と忙しいのでなんだかむしゃくしゃするぞ……



おらっ、随神門がでかすぎてフレームからとびだしてるでごんすよ……



壕まであるじゃねえか、城かっ

この前見た巨大狛犬の後ろに今度は……

 

天明6年8月建立であり、どうみてもこりゃ陶器……

https://www.youtube.com/watch?v=56sYKlCN-5c




茫洋と広い。

これは、戦争中に拡声機が電力の不足でだめになったので、一時休止していたのだそうだが、戦争がすんで電力の使用が少し緩和されると同時に、またすぐはじめられたのだ。場長は、このごろ、日本の科学の発展史、とでもいうようなテーマの講義を続けている。頭のいい講義とでもいうのであろうか、淡々たる口調で、僕たちの祖先の苦労を実に平明に解説してくれる。きのうは、杉田玄白の「蘭学事始」に就いてお話して下さった。玄白たちが、はじめて洋書をひらいて見たが、どのようにしてどう飜訳してよいのか、「まことに艫舵なき船の大海に乗出せしが如く、茫洋として寄るべなく、只あきれにあきれて居たる迄なり」というところなど実によかった。玄白たちの苦心に就いては、僕も中学校の時にあの歴史の木山ガンモ先生から教えられたが、しかし、あれとは丸っきり違う感じを受けた。

――太宰治「パンドラの函」


 

――りっぱな根っこである。

いっぽんの木と、いちわの小鳥とはたいへんなかよしでした。小鳥はいちんちその木の枝で歌をうたい、木はいちんちじゅう小鳥の歌をきいていました。
 けれど寒い冬がちかづいてきたので、小鳥は木からわかれてゆかねばなりませんでした。
「さよなら。また来年きて、歌をきかせてください。」
と木はいいました。
「え。それまで待っててね。」
と、小鳥はいって、南の方へとんでゆきました。
 春がめぐってきました。野や森から、雪がきえていきました。
 小鳥は、なかよしの去年の木のところへまたかえっていきました。
 ところが、これはどうしたことでしょう。木はそこにありませんでした。根っこだけがのこっていました。
「ここに立ってた木は、どこへいったの。」
と小鳥は根っこにききました。
 根っこは、
「きこりが斧でうちたおして、谷のほうへもっていっちゃったよ。」
といいました。
 小鳥は谷のほうへとんでいきました。
 谷の底には大きな工場があって、木をきる音が、びィんびィん、としていました。
 小鳥は工場の門の上にとまって、
「門さん、わたしのなかよしの木は、どうなったか知りませんか。」
とききました。
 門は、
「木なら、工場の中でこまかくきりきざまれて、マッチになってあっちの村へ売られていったよ。」
といいました。
 小鳥は村のほうへとんでいきました。
 ランプのそばに女の子がいました。
 そこで小鳥は、
「もしもし、マッチをごぞんじありませんか。」
とききました。
 すると女の子は、
「マッチはもえてしまいました。けれどマッチのともした火が、まだこのランプにともっています。」
といいました。
 小鳥は、ランプの火をじっとみつめておりました。
 それから、去年の歌をうたって火にきかせてやりました。火はゆらゆらとゆらめいて、こころからよろこんでいるようにみえました。
 歌をうたってしまうと、小鳥はまたじっとランプの火をみていました。それから、どこかへとんでいってしまいました。

――新美南吉「去年の木」




帰り際に、「礼祭図巻」を発見。

 

https://www.youtube.com/watch?v=3NqLbLozrKM

「太宰治を嫌う理由」(三島由紀夫)……若者に対して優しいね、三島はねえ……わたくしは……

若宮神社を訪ねる(香川の神社120)

2017-11-21 13:55:49 | 神社仏閣


木太町。


左手はこんな所――郷愁を感じる気がしてきた

  

「若宮堂」とされた記念碑は、「二千六百年記念」。案内板によると、このとき(昭和十五年)に燈籠、手洗鉢などをリニューアルしたらしい。新しい注連石などは平成十四年などのもの。案内板も平成十年。

案内板によると、

「祭神:火除けの神(狸)」


ぽんぽこぽん。天保のころ、竹藪を整地したところ火事が頻繁に起こるようになった。で、祈祷をしてもったところ、狸の仕業と分かった。この竹藪は、狸夫婦のすみかだったのである。で、人々は祠を建てて祀ったところ、平和になったということだ。

しかし、二千六百年記念などと天皇家にちなんで碑を建てたり、若宮などという仁徳だか応神だかしらないが、人を祀るが如き名前を付けてしまったため、ものすごい大火事(高松空襲)が起こったのであった(ここの部分、渡邊の妄想でした)


そういえば、ここに来る前、関西マ****という会社の中に稲荷神社を発見したが、狸ときつねの化かし合いに巻き込まれそうなので見物するのをやめておいた。

木太天満宮を訪ねる(香川の神社119)

2017-11-20 22:32:23 | 神社仏閣
木太の天満宮にやってきました。

 

 
大きな樹木が豊かで鎮守の森をつくっている。

  

 
牛さん

 
狛犬さん(慶応三年)

案内板に曰く、

「天満宮は昔一里塚の南の小さな丘の上にあったが、村人から忘れられるほど荒れていた。」


あらっ

「藩主松平頼重の寺社奉行筧助左衛門が、持病を治すため水主(大川郡大内町譽水)にあった岩風呂へ行く途中この地まで来て、荒れ果てた天神の境内で一休みしていた。」


なんの病気だろう……ストレスかな……

「ところが、松の木の上からその名を三度呼ぶ声がしたので、仰ぎ見ると衣冠の菅神が厳然として現れたが、従者には何も見えなかった。」


見えない物まで見始めちゃいましたよ……筧さん

「筧氏は大いに驚嘆し、ここに小さな石の祠を建て毎月二十五日に酒や供物を供えて祭ったと言う。昔、土地の人はこの社を筧天神と呼び、また足止め天神とも言われていた。」


なんか、足止めする人が多いな、さっきの地蔵も……同一人物じゃなかろうか……

上の説明は、『香川県神社誌』のなかでも「讃州府志」の原文のかたちで引かれていた。その時点での崇敬者は二十人と書かれていてそれほど多くはなかったはずだが、いまは地元の集会場も隣接していて、わたくしが訪ねた時もちょうどおばさん達が清掃をした後であって、きれいに片付けられている神社であった。どうも、近くにある折れ地蔵の存在が大きい気がする。合わせ技でどちらも大切にされているのではなかろうか。






本殿





多田潔司は、高松市の議長などをつとめた人らしい。厚生大臣をやった藤本孝雄が題字を書いている。政友だそうだ。神社をまわっていると、自民党と地域の結びつきというのは歴史のあるものだと痛感する。事情はいろいろあるにせよ。