人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ザ.ガードマンと昭和の悪役たち

2019-01-14 11:58:18 | 映画・音楽など
このところ、ヒマな時とか、ついつい見てしまうのが、昭和の名物番組だった「ザ.ガードマン」の動画です。
あの金曜の夜もついつい観てしまったものです。プロレス中継との流れなどで...
ジャズタッチの音楽、都会の夜の静寂を、"プッ、プー"と切り裂く、車の警笛音、欲望渦巻く街...今夜もどっかで悪が忍び寄る...
それにしても、この人たちは一体何をしている人たちなのか? 「キャップi ここは警察に知らせた方がいいんじゃないでしょうか?」「いいや、何とか我々の力で犯人を捕まえるんだi」と、自分たちの使命に燃えるあまり、社会の決まりには全く無頓着そうな高倉キャップ(宇津井健)
警察の下請け会社か? いいや、ただの警備員なのに、越権行為を繰り返しているだけです。
この傾向は、いつも"おい、高倉i"などとエラそうに、旧友のよしみで呼び捨てにしてるが、見習いとして警察から榊隊員(神山繁)がトラバーユ(死語。ネタが古いだけに悪しからず)し、何をやってもソツがなく、フツーの社員か技師のようにしか見えず、潜入調査にはうってつけの小森隊員(中条静夫)が眼鏡をかけ始めたあたりから、いよいよ後戻りが効かず、エスカレートして行く一方になりました。
最年長の"七人の侍"の生き残りのような、昔はスゴそうだった感のある吉田隊員(稲葉義男)と、最年少で、切り込み役みたいに、いち早く敵方に潜入しては、いつも背後から"ポカリ"と不覚を取ってしまう杉井隊員(倉石功)とは親子ほど年の差が感じられます。
よく分からないのが、怪しげなナイトクラブ(悪しからず)とかに、歌手として潜入するが、明らかに出すぎた真似でつい歌ってもしまう、大概主役のキャップを食うほどの活躍をする清水隊員(藤巻潤)と、逆に普段は出向しているのか、派遣社員なのか滅多に顔を見せることのない、ヘビースモーカー(いつもくわえている)の荒木隊員(川津祐介)です。
この人たちの仕事は普段要所でずっと立っているか、見回りをしているだけのはずなのです。面白くも何ともありません。
このドラマを面白く、引き立てているのは...そしてホントの主人公と言ってもいいのは、実は悪役の存在なのですi
悪が働かなければストーリーは生まれないのです。これはプロレスと同じです。
今でも時折テレビドラマを観てますが、何かどうも...悪役らしい、悪役は見かけなくなったですねえ。
このドラマはその点、昭和悪役総まくりと言っても過言ではありませんi
例えば...安部徹、今井健二、加藤嘉、金子信雄、神田隆、小池朝雄、小松方正、戸浦六宏、成田三樹夫、南原宏治、西沢利明、沼田曜一、穂積隆信、山形勲...(あいうえお順)
もう、大ボス、小ボス、殺し屋、チンピラ...キツネにタヌキにハイエナと、どいつもこいつも眼光鋭く、言葉巧みな、クセのありそうな顔ばかり...昭和のワルのことは、大体このドラマでお馴染みになりました。
しかし、この人たち一寸目付きを緩めて素に戻ると、何とも知的で会社の重役か大学教授、テレビのゲストコメンテーターとして出てきてもおかしくない、ホントの文化人って人も珍しくないのです。料理(金子さん)、将棋(成田さん)、絵画(沼田さん)の腕前はプロ級だったり...声優(刑事コロンボー小池さん)、ナレーターとしてもシブイ声を聞かせてくれました。
特に私がファンだった、成田さんなど東大に受かって、山形大に転学したという恐ろしいキャリアの持ち主で、俳優になった動機は、"自由が利いて、好きな読書が出来るから"と、インタビューで答えてました。
まるで当たり役の一つ「柳生一族の陰謀」(映画、テレビ共)に出てきた、公家のくせに武芸の達人、策士という「烏丸少将」を地で行っているような貴族生活をしていたのです。羨ましい...
とにかく、このようにステレオタイプの悪役とのギャップが、二重人格めいていて実に面白いです。全く悪役が悪役していた時代のプロレスラーと同じです。
悪役らしい人がブラウン菅から姿を見せなくなるにつれ、何が善で何が悪だか、見えにくくなってきたように感じるのは私だけだろうか?

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生きて愛するために

2019-01-13 11:39:38 | 人生の裏側の図書室
「雲さえ見えれば、たとえ独房でも結構楽しく暮らせるのではないか、最近はそんな気がしてくる」
「セーヌを見ていると、あくせくとした気持ちがなくなる。物事にはすべて決まった動きがある。それを見つけ、それに従うこと、それが真の幸福というものではないか」
(辻邦生「生きて愛するために」/中公文庫)

ネットで悟り系のブログなどを覗いてみる...
「幸福と感じたり、不幸と感じたりする自分なんていないんです。すべてはストーリーなんです...」
ああ、もう息が詰まりそう...誰が誰にものを言っているのか...自分というものから離れようとしているようで、かえってそこには"自分が、自分が..."という思いに取り巻かれそうに感じるのは、私だけだろうか?
早くここから脱したい(最初から訪問すんなi)...マトモな文章に触れたいi

と、こんな時、息苦しい空気の中で、すーっと心地好い風が吹いてきたような、爽快さを覚える文章に出会いました。
作家の故.辻邦生さんのエッセイ集。
読書家を自認する私ですが、文学には疎く、この方の小説は一度も読んだことはありません。
私の青春時代(70年代頃)にはよく聞くお名前でしたが、この所謂近代文学の時代(文学者書生の時代というべきか)と当世流行の文学との中間の世代と言っていい文学は、今では過去のものになってしまったのか、この作家の作品さえも品切れが多く、容易に入手出来ないのが現状のようです。私はこの作品を求めてほぼ一年間探し続けたのです。
それにしても、著者自ら「子供の頃から自分はごく平均的な、目立たない存在であると、常々思っていた...とにかく物事のバランスを大事にし、過激なことは性に合わない」と述べているように、全く無駄のない、クセのない、模範的、標準的な文章です。
オルケスタ.ティピカ(標準的という意味).ビクトルのタンゴを聴いているようです(何のこっちゃ分からないか?)
標準的ということは、決して可もなく、不可もないということではありません。卓越しているのですi 誰も真似など出来ませんi
何処にでもあるようなものが、実に得難いものなのですi
そう、ここに描かれいるのは、ありきたりの人生の諸相の、ありきたりでない著者の目から見たスケッチなのです。
特に、著者が雲や川に惹かれるところに共感を覚えましたが、何か書かれた、表された文章の向こうにあるものに、惹き付けられているようにも感じていました。
抜け目のないネコのような私は実は...その秘密が那辺にあるのかは、事前に掴んでいました。一体何処に姿を現すのだろう...
そうか...それは最後に顔を見せました。著者は敢えて"啓示"という言葉を使っていますが、若い頃ギリシアのパルテノン宮殿、セーヌ川のある橋の上、国立図書館でのリルケの詩の展示においてと三回に及ぶ、思いがけなく起こった、ある種の意識の変容の模様を綴っているのです。
各々の啓示に"この地上を包んでいる絶対一者的存在"、"森羅万象は私"、"一つのものの中にすべてが映し出されている"ことを示されたそうです。
これあるが故に、あのありきたりの風景が一際輝いて見える。そしてその内奥を開示されたものは、ありのままの日常を通して、雲間の隙間から差し込む光のように、川面に映し出される光の反照のように姿を見せるのでしょう。
これがバランス、調和というものなのでしょうか?
著者が文学活動の根拠を求めて遍歴していた時に与ったという、これらの啓示からすすむべき方向は定まったとのことです。

今年は辻邦生さんの他のエッセイ、そして小説をカバンに入れる機会が増えそうだ...


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私というものは他者である

2019-01-12 11:54:08 | 現臨、ハタラキ
「自分を眺めるなら、自分を知ることは出来ないということは確かです。自分にこだわり、自分に屈み込むことは、真の私たちではない対象、既成の存在の中に私たちを固定することだからです」
「無限の境界のない他者。ランボーがそれと知らずに"私というものは他者である"と名指しした方。これは、人間の言葉の中で最も偉大で最も美しい、最も深く、最も汲み尽くし得ない言葉です」(モーリス.ズンデル「慎ましき現存」)

ある人の書き物などで、その中心となる部分として述べられるものは、大体においてその序、最初の文章に表されるものです。
私はこのブログを始めたその時、確か深く考えもせずに、"何でもいいから一寸気の利いた文章でも書いときゃよかろう..."という軽い気持ちで書き始めたのです。
何しろ、どういうコンセプトで書いていこうか、ということも定まっていなかった状態でしたから...
だけど...私はうっすらと前方に雲のように立ち込めている、あるものに導かれているような感じも既に覚えていました。
自分のプロフィールみたいなことを書こうとしていたのですが、これが何も思い付かないのです。
それが..."自分の人生ってのは、このチッポケな私の思いや行いの集積で成り立ってる訳じゃ無い..."ということが電撃的に閃いて、ああいう文章になったのです。
そうです。私は、スイス系フランス人の神秘家モーリス.ズンデルが霊感を受けたという、フランスのあらくれ詩人ランボーがそれと知らずに書いていた、他者として現臨する"私"に、それと知らずに導かれていたのです。
自分のことをどんなに見つめ、観察しても、ロクでもない思いやガタイや"やっちまったこと"ばかりしか見えてこず、自己嫌悪に陥り、ますます自分のことが分からなくなりそうです。
本当に自己観察されるには、自己を超えた他者性から照らされなければ、どこまでいっても自己の限界内にとどまり続けるだけでしょう
非二元スピなどで、いくら"私はいない"と信じ、思い込もうとしたって、自己を超えたものに意識が明け渡されない限り、そう思っているのは、まさに思われた私なのです。
この私という他者なる現臨からの"照明"ということも、私はそうと知らずにずっと受けていたもので、このブログを書いていることでその事に気付かされたのです。
自分で自分を分かろうとしても、かようにダメさ加減を思い知らされるばかりです。
すると、どっかからか、声が聞こえてくる..."お前はそのままでいいのかあ~、ダメだろう~、変わらなきゃあ~"
自分で自分を律しようとし、変わろうとし、思った通りにならないところから、いよいよ自意識が強まってきて神経症じみてきたりします。
変わろうとしなくたって、厳しい冬から自ずと春は巡って来るように変わるのです。自覚しようが、しまいが...
私は別に自分を変えようと思ってブログを書いてる訳じゃありません。
しかし...大それたことじゃないけど、どんどん気付きが与えられて、見方、感じ方は勝手に変わってしまいました。
自分をどうこうするんじゃなくて、ただ現臨を受け入れるというだけで...
これは私のように自意識の強い人間にとっては、"コペルニクスもまっつあお!"、ともいうべき福音でなくて何であろうi
自分の人生でも世界でも歴史でも、この視点が与えられることにより、思われた以上の輝きを放つものになるでしょう。

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縁を借りて

2019-01-10 11:12:56 | 雑感
度々書いてる気がするのですが、このブログを初めて訪れた方(そうでない人も?)は、一体何を書いているのか、サッパリ分からないだろうと思います(笑)
これは、今まで知人との会話を通しても"君は何を言ってるのか、サッパリ分からんi"と言われ続けていたことなのです。
多くの読者には"捉えどころが無い"という印象を持たれているかと思います。
それもそのはず...私はハッキリそういう意図を持って書いてますから...
私はこれまでの精神的な道の中で、散々トラワレの様態を見聞きしてきたのです。
私自身が以前、新宗教にハマり、そこから離れてみて、如何にそれまで精神的牢獄の中でもがき続けていたか、それから解放されることが如何に自由で愛と希望に満ちたものか、ということを身に染みて分からされたことが、いつも書かされていることのバネになっているようです。
とにかく、"トラワレてはいけない...自分の道を自分で決めて、固めてはいけない...トラワレてはいけないことにもトラワレてはいけない"、とずっといつも見えない促しを受けているのです。
そうです。見えざる導き、見えざる導師のことに触れ、表して行くことが、見えるものへのトラワレから離れることにつながるのです。
"見えざる云々"ということにも、それは霊体なのか、守護霊なのかと、見えんものをさも見たようにトラワレてはいけないのです。
とはいえ、私はいきなりそういうものと交渉があった訳でも無く、いきなりそういうものが、ここにドロンと現れてくるもの(これは多く"話が見えてくる"という意味)ではありません。
なので、私はそういう関わりに至るまでの経緯についても記しているのです。しかーし...
これが又チンプンカンプンときてるようで...(笑)
"あなたは敬虔なクリスチャンかと思ってたら、何で他のイロイロな宗教の話が出てくるの?"
"あなたは最低賃金労働者に見えるが、哲学を語る知識層なのですね。そういう人は神がかりとかお告げだとかの話するのはオカシイでしょ?"
"あのね...分からん、見えんものを分かったように、見えたように決めつけなさんなi レッテルはどのように貼り付けようと構わんでしょうけど、一陣の風が吹けば、剥がれて飛んでっちゃうぞi"
"キリスト教の神は超越神なので、自己には求められない"、"非二元論者なのに、外側に神を設えるのはオカシイ"、"哲学では真理には到達出来ない"
ああ、めんどくさi
OO教、哲学、文学、神がかり、一元、二元...これらはすべて表現を"借りる"媒体に過ぎないのではないでしょうか?
借り物というと軽すぎるかもしれませんが、見えないものを伝達するには、形ある、見えるものを借りなければならないのです。
哲学、宗教的には概念というものを借りたりするのです。例えば神には様々な概念が付されます。しかし、概念そのものは神では無いし、"神は概念だ"とするのも概念です。
言葉で言い表されるものに、我々は様々な表現形態を見させられているだけなのです。そして、借りのものとは、"仮のもの"です。
仮、借りのものでないものとは、異なる借りのものを超えて伝わる"見えないもの"のことでしょう。
しかし、ただ、見えないものというだけだったら、空気といっしょです。
それはまさに言葉に言い表せない、理屈を超えて惹き付けてやまないもののことですi
もし、そういう息吹が感じられたのなら、私はどんなにエライ人から迷信のレッテルを貼られているものに対しても惹き付けられてきました。
どんな言葉の媒体であっても選ぶところは無いのです。
"OO教だの、OO主義だの、一元だの、二元だのと言ってたって、このものに触れられるかi"
大調和協会の命位様は「あなたはアチコチで縁を借りてるのね」と言ってましたが、私はここでヘンテコな放物線を描く見えたり、見えない縁のトレースを記しているまでです。
僅かなりとも、あなたの縁に触れるものがあればと思っていつも書かされている次第です。
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現実を受け入れる

2019-01-09 12:12:48 | 求道、探究
とかく宗教やスピに走ることは、現実逃避ということに結びつけられ、批判がましく言われたりします。
私の一寸した知り合いのある宗教の信者でも、いつもその格好の逃げ場である、イロイロなオカルト教説にハマって居ます。
もう、何十年も信者を続けているベテランで、その教えに従って日夜修行に励んでいるようなのですが、どうも思ったように進展しないのか、物足りないと感じているのか、ナンチャラワークとか不食の実践などにトライし始めてしまうようです。
その教えに従って修行することに問題があるのか、取り組み方に問題があるのかは、私はずっとそれに従事していた訳でも無く、当人でないので何とも言えません。その問題も当人の問題であるのも言うまでもありません。
ただ、私はその教祖さんが言っていた「思いを超えるということは、神に思いを向けるということ」であるのは、全くその通りだと自内証出来ます。これでジンジンしてきたら私などイロイロ試そう何てこた思いませんi
ま、何を思い、何を感じようと人の自由なので、夢を追いかけ、夢想に浸るのもいいでしょう。私もある面ではそうしています。
けれども、その宗教の本来の眼目とも言える、神的なものにつながり、本心を開くことに関しては、夢想、妄想、思い込みに囚われている限り、叶うことは無いでしょう。
本当は、神という言葉自体も様々な概念、イメージと結び付き夢想、妄想を作り出す元ともなるので、使わない方がいいのかもしれません。
だから、私はしばしば神的なものとは、現臨と言っています。現臨、現存...。
神的なものはリアルな現実と切り離されていないのです。
私は改めてこうした言葉の響きを感じて全心身が震えそうになります。これを足りん頭を振り絞って、もっともらしく哲学的に説明することもある程度は出来るかもしれません。だがそれで分かったつもりになったら、あらゆる現実は思い描いたものになるだけです。
そも一体現実とはどういうものなのか? 抽象的現実などあろうはずありません。
人が言う現実とは、自分の前に立ちはだかる動かし難い壁のようなものでしょう。
例えば、先の例で言えば、いくら修行に励んでいても、いっこうに進展が無ければ、そうなっているのが現実です。そうなっている...出来ないんだから仕方がありません。それは受け入れるしかありません。
しかし、自分がその事に負い目を感じてか、自分は進んだ人間と思い込もうとしたり、人にもそう思わそうとすることは、現実を受け入れていないということです。そこから現実遊離が始まるのです。進んだ人間がエライ訳でも遅れてる人間がダメな訳でも無いのです。
私について言うならば...私は何の行であれ、日々のその行すらしてないi 最初から落第してるようなものです。
出来ないんだから仕方が無いi 出来ないことを思い知らされているんですi そうした現実が臨んだことで...
現実が臨むということは、どんな夢想も、妄想も入り込む余地などありませんi これは全く動かし難い壁に違いありません。
だが、私は壁の向こう側にあるものを垣間見てしまいました。その壁とは"そう思い込んでいたもの"で作られていたのです。
しかし、もはや何も考えることが出来ない...だから受け入れることしか出来ないのです。負い目も何もない、疑いも迷いも無いi
それはすべて"私は出来ない"という現実を受け入れたことから開かれたのです。
"出来る、進歩出来る..."と思い込むところ、囚われるところには、飽くことなき堂々巡りしかありません。
それは現代文明というものの諸相に示されている通りのものです。
現実逃避などと言うけど、人が言う現実など所詮人が、世の中かがそう言っているだけのものです。
自分の現実というのは...いや、その自分を置いて一体どこに現実など有り得ようか?
そこに思いがけなく壁の向こう側から生ける現実が臨むのですi
誰もこの現実からは逃れられませんi


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