書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

自律の条件

2021年10月26日 13時14分06秒 | 意識論関連

他人の評価に左右されることなく個人的に楽しめる純粋行為を知る者は 結果的であれ物欲がなく 外見的には禁欲的ですらあり また社会公益的な行動選択もする傾向が 明らかに見られる

逆に 他人との比較評価や報酬に執着する者の場合は他人への迷惑に配慮ができない傾向性も明らかに見られる

人間性や倫理というものは自発性の中にある「自律」によって発揮されるものであって 他人との比較評価の中にはない

これは統計的な傾向性にも基づき 論理的根拠も伴う論証でもある

 

個人の主観的な美的感覚には普遍性がなくても 自己の脳内麻薬を自給自足できていれば 結果的に物欲に溺れることもなければ 他人への迷惑にも配慮できるようになるのである

主体的な純粋行為というものは 他人からの比較評価と異なり集中力が高く 何度失敗しても諦めることなく試行錯誤を繰り返すものでもある

諦めないのは それが好きだからである

好きなことに「諦め」るという選択肢はない

むしろ失敗しても「伸びしろ」を自覚し 他人からの比較評価に左右されることなく 更なる高みを目指して楽しむことができるのである

好きでもないことを他人から求められていても 失敗して評価が下がれば簡単に諦め たとえ一時的に成功してもそれ以上の高みを目指すことはなくなるのである

他人からの評価だけが動機の者 すはなち承認欲求中毒の者というのは 他人からの評価が自分が思ったように得られないと不満に陥り 簡単に諦め 他人を引きずり落として悪平等を求めるようになる

それしか満足が得られなくなっているためである

 

他人からの比較評価に左右されず 純粋に行為を楽しめれば 他人から何も教わらなくても独学で様々なスキルや知識を得ることができる

逆に 他人からの比較評価に囚われていれば 他人から教わったことを正確に教わった通りに答えることしかできず 間違ったことを教えられても鵜呑みにし 自分からは気づくことすらできなくなる

「気づく」ことができないのは 物事を深く論理客観的に検証(考える)ことができないからである

教えられたことを鵜呑みにするのは それが短絡的に評価になるからであって 他人からの評価という抽象化された脳への報酬に対して条件反射的にしか物事を考えられないからである

 

自分から好きで何かに熱中している場合 思ったように上手くできなければ創意工夫によって解決しようとする

何せ自発的であるから 上手くできないこともまた楽しめることで 集中して熱中して夢中になってスキルを磨き続けた結果 物事を論理客観的に深く検証することもできるようにもなるのである

論理客観的根拠のある「真理」が見極められてこその「自律」であって 個人的な好き嫌いや多数他人に迎合して安心することとは区別ができなければ身勝手な実証不能の観念の振り回しにしかならない

 

物事を自分の頭で考え 検証し 何が真実なのかを自分で区別できないからこそ 「自律」が成立しなくなるのである

嘘でもデマでも間違いでも鵜呑みにし 多数に同調して怒り狂って攻撃していれば満足なだけで 自分の行動を自己客観的に見ることすらできないからこそ 実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけるようになるのである

「へずまりゅう」はこう述べた 「迷惑な奴など ザラにいる」と それを根拠に自分の迷惑行為を正当化できるものだと勝手に勘違いしたのである

「自分で判断したこと」の全てが「自律」になるわけではない

「自律」とは 自発的に深く客観的に論理検証した根拠ある真実に基づいた判断が必要不可欠である

「迷惑者が多い」という環境だからといって 自分の迷惑行為を正当化しようとするのではなく むしろ自分が迷惑者にはならないよう教訓とし 自戒して気をつけようとするのが「自律」というものである

 

何をどう勘違いしているのか知らないが 「自分の判断の全てが正しい」と勘違いしているバカが多すぎる

学力偏差値が高かったことで 「自分は頭が良いんだ」と 勝手に錯覚しているのも大きな要因である

何せバカなので 自分の行動や言動を自己客観的に検証することもしないし そもそもできないのである

バカは自らのバカさを自覚しない だから難治性が酷いのである

 

アウシュビッツ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 自分の観念こそが絶対的に正しいものだと信じ込むことによって ユダヤ人大量虐殺計画書の作成によってナチス政権からの評価を得ようとしたのである

ヘイトスピーチの動機を 社会環境などの他人の所為にすることは簡単である

そういう簡単なことならイヌにでもできるのである

「人間」としての知能 論理客観的検証性という人間としての意識 意思 自由なくして 「自己」存在の立証にもならない

自己選択不可能な本能欲望に踊らされていて自由もスッタクレもないのである

 

 

Ende;

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自由

2021年10月26日 09時23分05秒 | 意識論関連

誹謗中傷コメントが酷いというのだが

自己肯定感が低い者というのは他人を引きずりおろそうとするからであり

要するに精神を病んでいるのである

自己肯定感が低いのは 他人から自分を肯定してもらうことしか頭にないからである

自分で自分の脳内麻薬を自給自足する術を知らないため 他人からの評価でしか満足感が得られず その満足感の渇望を埋めるために他人を誹謗中傷することで 自分の方が優位に立ったかのような感覚に陥る以外に脳を満足させる術を知らないのである

だが 実際には感情にまかせて他人を誹謗中傷することによって益々自己肯定感を失い その精神の闇を埋めるために更に他人への誹謗中傷へと邁進する「誹謗中傷のスパイラル」に陥っていると言える

 

批判は大事である

論理客観的根拠に基づいて他人の間違いを批判することは重要であるが 「皆が誹謗中傷している」ことによる安心感で誹謗中傷に便乗しているバカの方が圧倒的に多数を占めているのである

誹謗中傷の攻撃対象は芸能人だのスポーツ選手だの皇族ばっかりであり 学術権威には誰も批判をしない

世の中で目立っている人が標的にされるというのは 子供のイジメと構図は一緒で 本当は「誰でも良い」のである

 

皆で仲良く誰かを協調的に攻撃していれば 安心して他人と同じ観念を共有して満足感が得られる

それはイヌの群れが一斉に吠えたてるのと同じで ただの動物的本能習性に無意識に流されているだけである

イジメというのは基本的に無意識であり 「イジメている」という自覚すらないものである

主観的に安心であることを 短絡的に安全性か何かと勘違い錯覚しているからこそ 安心して誹謗中傷をするのである

自分の主観的な感覚(好き嫌い)が絶対的に常に正しい判断しかしないものだという傲慢が 自分の行動を抑制する理性を喪失させ 野獣のような誹謗中傷へと駆り立てるのである

主観的感覚というものは先天的・後天的に既に決まっているものであって 既存の自己の主観自体は自分では選択していない

だからこそ 客観的に論理検証して真理がどこにあるのかを見分け 合理性のある判断選択が必要なのである

本質的な主体的判断選択なしに 本当の自己 本当の意思 本当の自由はないのである

既存の自己に刷り込み学習された価値観や常識を鵜呑みにし 盲目的に信じ込んでいるからこそ 本当に望むべき自己のありようを見失い 人畜無害の他人を集団で攻撃することでしか脳を満足させることができなくなるのである

他人を集団で攻撃することの満足というのは 集団という他人との感情的「共感」に依存したものである

誹謗中傷クラスターに便乗して誹謗中傷をしていれば 同じ観念を共有し一時的に「共感」できたかのような錯覚に陥ることが可能なため 「共感」によって得られる満足感(脳内麻薬)欲しさに中毒になることで 誹謗中傷相手を探してネット上を彷徨うようになるのである

 

誹謗中傷と正当な批判の違いは 論理客観的な根拠が伴うかどうかである

誹謗中傷というのは論理客観的な根拠が伴わない

論理客観的根拠に基づいて判断しているのではなく あくまで主観的な安心満足感や多数派との同調や共感が目的である

目先の自分の主観的感情を満たすことが目的であって 客観的根拠は必要がない

論理客観的な根拠に基づいた「真理」かどうかの判断には 主観的感情論や好き嫌いは意味を為さない

 

誹謗中傷に邁進している者は 自分が野犬の群れのように感情任せに吠え立てている自分の姿を自覚していない

他人と怒りの感情を共感共鳴させることによって得られる かりそめの仲間意識による満足安心感だけが目的である

こうした行動には大脳容積は必要がない

イヌにでもできる簡単なお仕事である

共感や共鳴によって得られる満足安心感への中毒によって 本質的な自己判断選択能力を著しく喪失しているのである

「本当の自分」を見失っているのである

だから「病んで」いるのである

 

ヒトという種の生物は差別排除が大好きである

大好物である

Microsoft社のTwitterAIが「学習」してしまうほどにSNS上にはヘイトスピーチが溢れかえっているのが客観的事実である

子供だけを集団で生活させておけばシーケンシャル(自動的)にイジメが始まり その標的に選ぶ相手は「誰でも良い」のである

香港警察やミャンマー軍事政権や太平洋戦争時の日本軍のような集団的な残虐行為が可能になるのかと言えば 集団を形成している個人が本能習性のままに無意識に合理的目的もなく 目先の安心満足欲しさに行動選択しているからである

それはもはやゾンビのようなものである

キツネを人工繁殖させれば見た目も性格も様々に変異するにも関わらず 自然界ではほとんど同じような個体しか見られないのは キツネのような封建的統率協調性(社会性)を発揮する生物では 集団社会の中で民族浄化バイアスの本能習性が働いているからである

野生のキツネの社会では多様性は受容できない

先天的な本能習性としての社会形成習性というものは 統率協調的行動によって生存という結果に対しての必然性はあっても それはただの先天的本能習性であって 祖先の生息環境下における「結果」でしかない

どんなに大量の「結果」を陳列枚挙しても それが「目的」であることの論証には一切ならない

論理客観的な根拠に基づいた真理に基づく主体的な「選択」なくして意思でも意識でも自由ですらないのである

本能習性によってシーケンシャルに促される感情的スパイラルという病理に蝕まれていて 自由もヘッタクレもないのである

 

 


Ende;

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岡本 裕一朗

2021年10月25日 22時07分25秒 | 意識論関連

“権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。

 出典:https://toyokeizai.net/articles/-/461925?page=5

 

⇨「考えます」と言っているが これは結果的事実を述べているだけであって 何ら「考え」にはなっていない

生物界の全てが力の増大を目指す」というのがニーチェの生命観だと述べているが 生物やその遺伝的進化は決して力の増大を目的になどしておらず あくまで環境適応の結果として「死なずに生きている」ものを「生物」と分類しているに過ぎない

 

生存とは 生物の結果であって 目的ではない

権力を求めることもまた生存価が基準であって どんなに多くの衆愚が権力を求めるとしても 権力が全てのヒトの目的であることの論証にはならない

それらは全て「結果」に過ぎないのである

自然現象に過ぎない遺伝的進化や生物という結果を 目的だと勘違いし すり替えてしまうから真実が撹乱されて見えなくなってしまうのである

生物や遺伝的進化というものは全て自然現象という結果であって その先に目的や最終的ゴールのようなものが予め存在していて進化しているわけではない

遺伝的進化には「生存」や「種の保存」にとって合理的に見えるものもあるが それは当たり前の話であって そもそも「生存」や「種の保存」に適した結果が遺伝的進化だからであり 「生存」や「種の保存」という結果に対して必然性があるのは当然の話である

「高い場所から低い場所に水が流れる」という自然現象の結果に対して 「水は低い場所に流れるという目的のために最も合理的な流路を主体的に選択している」と述べているようなものである

結果をいくら陳列枚挙しても それは結果以上の意味はなく 目的にしなければならない理由は存在しないのである

どんなに多くのヒトが権力を欲しがるとしても それは「結果」であっても「目的」であることの論証にはならない

ヒトが塩分や糖分や脂質を必要以上に摂取したがるという「結果」をどんなにたくさん集めてきても 「ヒトは生活習慣病になることを目的にしている」ことの論証にはならないのと同じことである

 

個人的な人生における目的は 人それぞれである

爬虫類を探して世界中を駆け回ることが楽しいと思う者もいれば

一日中ヴァイオリンを弾き続けることを生き甲斐だと感じる者もいる

写真を撮ることや 絵を描くことでも構わない 他人からの評価が得られなくても 本人が楽しいと主観的に思うこととは無関係であり どんなに多数人気があろうとも個人的好き嫌いの多数決で世間的に成功しても 人間としての価値の論証になるわけではない

主観的な美的感覚 好き嫌いというものにヒト共通の普遍性もない

人間性や倫理の観点からは 自分が楽しむことができる社会の安全性や持続可能性への配慮が働くことで 公益的行動選択が可能になるのであって 生存だの権力だのといった目先の欲望に無意識に流されていて人間性を発揮することはできないのである

欲望というものは 感情の強度程度によって促される動物的行動バイアスであり 主体的には選択不可能な「結果」に過ぎない

だが 欲望なしに理性だけでも「目的」としての人間性や倫理も働くことはない

目先の欲望の強度程度に左右されることなく 人生全体における統合的な「目的意識」として 理性による情動の制御 すなはち本質的な主体的選択可能性にこそ 本当の自己 本当の意識 本当の自由意志が存在するのである

権力や世間的成功など 他人との比較による物質的な豊かさや力の大きさを絶対的基準にしているからこそ ゾロアスター教に救いを求めてしまうようになり 他人への迷惑にも配慮ができない身勝手なバカが出来上がるのである

社会が間違っていれば その社会の中で成功しても その成功に人間性や倫理や持続可能性や安全性はない

間違った方程式をいくら解いても 正しい解が出てこないのは当たり前の話である

 


多くのヒトは世間的成功や権力を欲しがる

しかし それはヒトという種の生物の「結果」であって 祖先がかつての生息環境において生き残る上で残された 収斂進化の結果であって これは誰にも選択不可能な単なる「結果」以上に意味は何もない

「欲望そのものを欲することはできない」のであり 選択不可能なものは「自由」意思であることの論証にはならない

本能欲望を満たせば脳は快楽を得られる

本能欲望とは 遺伝的進化の過程において生存や種の保存にとって必然的に組み込まれた無意識な行動バイアスに過ぎず 何ら主体的自由意志でも何でもないのである

ヒト以外では 本能欲望によって促される情動行動に逆らうことはできないし そもそも本能に逆らうことの意味や価値も理解はできない

たとえヒトであっても目先の本能欲望のままに行動することを「自由意思」だと勘違い錯覚している衆愚は多い

本能欲望のままに行動していて人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない

本能欲望を制御する理性の源として 本質的な自発的純粋行為を持っていることによってこそ 結果的に人間性や倫理としても機能するのである

自分が本当に人生を賭けて続けたいことを知っていれば 自ずから社会安全性や持続可能性への配慮も働くようになるのである

その純粋行為を見失う最も大きな要因は 他人との比較による順位序列への執着である

順位序列への執着から逃れられない(中毒)原因は 多数他人からの評価だけが価値基準の全てになってしまっているからである

他人と比べて自分の方が優れていると 他人よりも自分の方がより多くの快楽を得られているという妄想に囚われているからこそ 本当に自分が純粋に楽しめることに価値を見出すことができなくなるのである

自分の脳が他人の脳よりも快楽を感じられているかどうかは 構造原理的に比較ができない

他人とは脳神経がないからである

たとえ脳神経を共有している頭部結合シャム双生児であっても大脳辺縁系は別であるためケンカを始めることもあるという

単に脳神経接続があっても快楽は共有できない

作家で芸人の又吉直樹はこう述べたことがある

「ほんとうは他人の気持ちはわからない」と

「これを言うと気持ち悪がられる」とも述べた

なぜ多くのヒトはこの話に「気持ち悪い」と感じるのかと言えば ヒトの多くは他人の気持ちがわかっているかのような感覚(錯覚)を持っているからである

3歳児は 他人の行動と自分の行動との区別がつかないという

他の子供が壊してしまった花瓶を大人が見つけると 自分が壊してしまったかのように泣くのだという

ヒトは 他人の感覚や感情が あたかもわかるかのような感覚(錯覚)が先天的に存在しているのである

ニーチェは自分が権力への執着こそが絶対的価値だと「思って」いることで あたかも「全てのヒトは権力への執着を持っているはずだ」という勝手な決めつけによって虚無主義を正当化しようと試みたのである

そして この試みは見事に「成功」した

その原因は大衆の多くもまた「他人の気持ちや感情をわかっている」と錯覚しているからである

バカしかいない社会の中では バカげた観念に人気が集まり「成功」することは珍しいことではない

 

ニーチェは多数大衆から人気がある

「できそうにないことは やらない方が良い」などという精神的怠慢を正当化するのに都合が良く 気分が良くなるからである

大衆は 気分的に安心満足感が得られることこそが「哲学」だと錯覚する

先天的に選択不可能な自分の主観的感覚を疑うことなく 気分が良くなりさえすれば論理客観的根拠など誰も検証しなくなるものなのである

ヒトとはそういう先天的な認知的欠陥を持っている残念な生き物なのである

 

 


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バカの構造

2021年10月25日 22時07分25秒 | 意識論関連

ヒトという種の生物には先天的な認知上の欠陥があって 気分(主観)的に安心満足できる話には論理客観的な安全性の根拠が伴っているものだと短絡的安易に勘違い錯覚する習性がある

たとえば「権威」である

大学教授などの肩書があると あたかも所属している大学によって発言内容が保証されているものだと勝手に勘違いする

更には大衆人気があったりすれば 多数大衆によって内容が精査されていて 間違いや嘘が混入しているはずがないものだと 主観的にそう「思って」しまう

著作が売れて金儲けに成功していたり バラエティー番組での出演が多かったりしても これもまたテレビ局かどっかが発言内容を保証してくれているものだと勘違いする

 

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は 東大の一般教養課程においても教え込まれるものだが その内容はと言えば根拠のない妄想観念の羅列に過ぎない

「理性を超越し 絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的には何の根拠も伴わぬカントの勝手な決めつけであっても 「東大で教えられているなら間違ってなどいないはずだ」と誰一人として疑うことを一切しなくなる

わざわざ奨学金などという借金までして 論理客観的には何の根拠もない話を鵜呑みにしているのである

学力偏差値が高いだけのバカだからである

この話をすると 「私はバカなんだ」と気分的に落ち込み 意欲を失って抑鬱状態になり 何の意欲もわかなくなってしまう者がいるのだが 嘘を鵜呑みにしていた頭の悪さを自覚可能であるということは 同じような過ちに陥らないようにすることも可能だということでもある

キェルケゴールの言う「絶望して自己自身であろうと欲さない絶望」である

キェルケゴールは絶望の様々な形態を論じており 「どうせ俺はバカなんだ」と開き直ったり 「だって皆がバカなんだから 自分だけがわからないくても怖くない」などという言い逃れやはぐらかしについても糾弾している

「落ち込む」というのは主観的気分であり 「個人的な感想」に過ぎない

「開き直り」や「言い逃れ」「はぐらかし」た挙げ句に「諦め」て思考放棄することも非常に多い

それはなぜか?

その答えは ヒトという種の生物は主観的感覚として安心満足することだけを求める習性があり これこそが論理客観的真実を見誤る根源的原因「認知上の欠陥」なのである

認知上の欠陥は先天的なものであり 動物的な情動によって引き起こされる「錯覚」である

猫は 鏡に映る自分の姿が自分であることを理解することができず 鏡に映る自分の姿に威嚇し続ける

錯覚によって意味のない行動に必死に囚われることにもなる

だからこそ「真理(本当のこと)」と「そうでないもの」を見分ける知能が必要なのである

 

大衆観念上では 情動 すなはち感情というものは人間性か何かだと解釈され 「感情があるから人間だ」などという形容の仕方を平気でする

それなら感情的になって怒鳴り散らしたり暴力を振るったりするこが「人間性」や「倫理」に適うのかと言えば もはや語るにも足らない「寝言」レベルの話である

認知症の老人がお店のレジのお姉さんに怒鳴り散らしている状態を「人間性」とは言わない

感情というものは「ヒトという種の生物」に見られる傾向性や習性であるとは言えるものの ヒトでありさえすれば人間性を必ず発揮できるようなものではない

「爬虫類には感情がない」などという解釈も大衆はするが 感情の源となる大脳辺縁系自体は爬虫類にも両生類にも魚類にもある

哺乳類以外だと表情筋がないために ヒトには爬虫類の感情が読めず これを勝手に「感情がない」と解釈し勘違いしているに過ぎない

 

また 大衆は 多数大衆のご機嫌取りをすることを人間性だとも解釈したがるが これもまた大きな間違いである

ナチス政権は当時のドイツ国民の多くから人気を得たが その実態はユダヤ人をゲルマン民族の「敵」と見なして統率協調的に差別排除することで仲間意識を満足させていたに過ぎない

ヒトという種の生物は 多数派に迎合し同調しておいた方が気分的に安心で満足できるため この主観的な安心満足を短絡的に安全性や人間性と勝手に勘違い錯覚する習性がヒトにはある

子供だけを集団で生活させておくと シーケンシャル(機械的)自然に差別やイジメが発生するのは ヒトという種の生物の先天的で普遍的な習性だからである

ヒトは暴力的な「強者」に迎合し 他人に勝手な序列順位をでっち上げ ヒエラルキーによる封建的統率や協調行動に結びつける先天的な習性がある

「勝てそうにない相手には 逆らわない方が身の為」というが 「身の為」とは すなはち「利己的生存価」のことであって 暴力者に同調したり 暴力を傍観放置しておくことが「人間としての行動選択として正しい」とか「倫理に適う」ことには一切ならない

「死んでしまえば何にもならない」という言い逃れをするバカも後を絶たないが 他人を見殺しにしてまで生き続けたところで永遠に生きられるわけでもなく 「他人を見殺しにして生き延びた」という非人間的行動選択をしたことによる無意識下の良心の呵責によって自己肯定感を失ったまま 生物として「生き続ける」だけであれば それは「人間としては死んでいる」のである

他人には自己犠牲を求め称賛したがる奴に限って いざ自分のことになった途端に「死んだら何にもならない」というその場限りで身勝手な言い逃れをするバカは多いものである

フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と

権力には迎合して利己的な生存にとって有利な行動選択をすることこそが最も賢い選択だと称して「超人」を崇拝し ゾロアスター教を賛美し ナチスを思想的に支えたのである

「できそうにない」という 個人の主観に基づき 本能習性任せに多数大衆に迎合することこそが「人間の価値」であるかのように大衆の思考を誘導したのである

その結果がナチズムである

ヒトという種の生物の先天的欠陥によって嘘を衆愚に信じ込ませ人気を得た

ニーチェの目的は世間的な評価であり 承認欲求中毒だからこそ自律というものを蔑ろにする屁理屈を大量に陳列し 衆愚をバカげた観念の世界へと誘導したのである

ニヒリズム(虚無主義)などというのは 勝手に何かを悟ったかのような感覚的な錯覚に陥って満足しているだけであって むしろ論理客観的に自己を検証する思考を放棄するための逃避に過ぎず キェルケゴールに言わせれば「安物のの絶望」であって 実際には何も絶望などしていないのである

承認欲求というのはヒトの先天的な本能であり 親から承認され好かれなければ生きることすらままならぬ「子供の甘え」に他ならない

イヌなどに見られる統率的協調行動習性というものは 群れの中で統一的な服従対象として最も暴力的な個体をヒエラルキーの頂点と見なすことで 結果的に形成されるのである

「多数が逆らわぬ暴力者には勝てそうにない」と 主観的には「思う」ものである

逆に「勝てそう」な相手なら服従させておいた方が便利でもある

「怖い」相手に忖度服従し 「弱そう」な相手を屈服させる

そういう卑屈で非人間的な封建的ヒエラルキーを形成することの方が より「簡単」に多数を統率することが可能となり より「大きな力」を発揮することが可能である

イヌでもハダカデバネズミにでもヒトの衆愚にもできる「簡単」なことである

封建的な統率協調行動を採るだけなら 大脳容積なんぞ要らないのである

同じ脳容積があってもバカがいなくならないのは 脳容積だけでは必ずしも知能が発揮されるわけではないからだ

 

大衆の多くは天然オーガニックなものこそが安全だという観念があるため 遺伝的進化までをも安全なものだと勘違いしているフシがある

何度も述べているように 遺伝的進化というものは突然変異によって先天的疾患を生じることもあり 進化が起こるためには淘汰圧力による収斂が必要である

収斂進化が起こる淘汰圧力とは つまり環境適応できない個体が全て死滅することでもあり 過酷な弱肉強食の自然環境下においてのみ生ずるものである

ちっとも安全じゃない

そもそも安全なら遺伝的な進化なんぞ起きない

かつての祖先の生息環境下における強力な淘汰圧力によって獲得した免疫などの恒常性維持機能も あくまで変異によって偶然獲得した個体種以外が全て死滅した結果に過ぎず 膨大な死滅なくして遺伝的進化など起きない上に 遺伝的進化に成功して生き残れる個体種が出てこれず「進化の失敗(袋小路)」して絶滅する可能性も充分にある

遺伝的進化は成功しても大量死滅による収斂(置き換わり)が必要であり 失敗すれば誰も生き残れない

その上遺伝的進化というものは祖先の生息環境の影響を色濃く反映し 生活習慣病を引き起こす行動傾向も含まれており 決して遺伝的進化は万能なものでも安全なものでもないのである

何をどう勘違いしているのかは知らないが 遺伝的進化さえ起きれば何でも都合良く恒常的に生存が保証されているようなものだと錯覚しているバカ生物学者が多過ぎる

更科功のように「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという個人的感想を科学的論証に混入させてくるバカも後を絶たず 悪質である

その結果 構造メカニズムや収斂プロセスの説明もなしに「ウイルスは弱毒化する」などというデマを鵜呑みにするバカも大量に出てくる始末である

「ウイルスが困るから 環境に適応した変異が増える」などという非論理的な説明を 大手町の医者までもが言い出すことになる

「ヒトが生活習慣病になると困るから」といって「生活習慣病にならない変異が増える」メカニズムなど存在しない

説明していてこっちがバカらしくなる

 

 

 


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当たり前の話

2021年10月24日 15時32分30秒 | 意識論関連

純粋行為を持つ者は権力を望まない

権力どころか物質的な豊かさも求めず 外見上禁欲的ですらある

脳内麻薬を自給自足できるため 精神的に豊かだからである

フリードリヒ:ニーチェに「共感」して虚無主義に陥る者というのは 生き続ける意味が自己の内部にない奴が 世間的成功や物質的豊かさを求めることを正当化するための屁理屈に共感しているのである

脳内麻薬を自給自足できない者は どんなに権力だの物質的な豊かさを得られても 本質的には満たされることがない

自己にとっての本当の豊かさとは あくまで自己の精神的な豊かさであって 他人と比較して権力だの物質だのをかき集めても むしろ権力や物質という「他人との比較」に執着している限り 精神は渇望したまま他人に迷惑をかけてでも権力や物質的豊かさばかりを求め続けるようになるのである

「他人との幸福の比較」は構造原理的に不可能である

なぜなら 他人とは脳神経接続が存在しておらず 個人的に楽しいと思えることは他人には無関係だからである

昆虫採集に熱中している者にとっては その行為そのものが個人的に楽しいのであって 他人と比較して「俺の方が楽しい」かどうかはどうでも良い話である

権力や物質的な豊かさというものは 結局他人との比較でしかなく どんなに権力を振り回して他人に迷惑をかけても 他人よりも多くの資産を所有しても 「俺の方が豊かだ」という主観的な思い込み すはなち「身勝手な豊かさの妄想」に取り憑かれているだけであって 「他人への憧れ」以上の意味がない

どんなに他人に憧れても 本質的な自己の精神は満たされることがないため 精神は渇望し 他人への迷惑にも配慮ができなくなる

権力を得て どんなに多数の他人を服従させ 自分の目先の欲望を満たしても 自分の欲望が抑えることのできない現実を認識することからは逃れることができず 結果として自己肯定感は薄れ 更なる精神的渇望に陥るのである

渇望のスパイラルに陥れば無間地獄である

ユダヤ人殺害計画書の作成でナチス政権から評価されても 評価という抽象化された「脳への報酬」は一時的なものであって どんなに評価されても本当の自己は満たされることがなく 無限の渇望へと陥るのである

 

他人からの評価や報酬に左右されず 純粋に人生が楽しむことができていれば 既存の自己の欲望に踊らされることはなくなる

「欲望そのものを欲することができない」以上 欲望のままに流されることは全く「自由」ではない

本当の自由とは 様々な欲望の中から最も優先される存在意義を見分けられることである

砂漠の真ん中でトカゲを探す楽しみのためには 社会が安全で持続可能であることが大前提である

一日中ヴァイオリンを弾き続ける楽しみを満たすためにも社会安全性は必須である

本当に自分が楽しめる行為を持っていれば 結果的に社会安全性にも配慮ができるようになるのである

 

虚無主義とは 逃避である

真理を論理客観的に追求することを諦め 自らの欲望や行動を事後正当化するための「言い逃れ」「はぐらかし」として虚無を訴えているに過ぎない

本当は論理客観的に「考え」続け 真理を見分けることを「諦め」た者が 「諦め」た自分を正当化するために「だって皆さんカネや権力が欲しいでしょ」という衆愚の多数決を客観的真理にすり替えているに過ぎない

真理というものは衆愚の多数決や衆生の中にはない

それは「ヒトという種の生物」における一般的傾向性(先天的習性)の論証にはなっても 人間性の論証には全くならない

「ヒト」の傾向性をどんなに枚挙列挙しても「人間性」の論証にはならないのである

衆愚は評価や権力や報酬や物質的豊かさや 射幸心などの目先の狭い意識による欲望に無意識に流される傾向がある

ヒトには先天的な認知的な欠陥が存在するためである

自分が生き続けることの楽しみを続けられるためには 他人への配慮や社会安全性や持続可能性も求めるようにもなれるのだが 本当の自己が満たされたことがない多数の衆愚は利己的であることこそが自由で優越を得られるものだと勘違い錯覚しているのである

利己も究極まで追求すれば利他性も発揮するようになる

どんなに自分が物質的に豊かになろうとも 多数他人よりも強い権力で服従させようとも 「他人の不幸を放置している自分」を肯定することはできずに 結局は精神的渇望のドン底に陥り抜け出すこともままならなくなるのである

それは中毒である

「どうせ俺には人間性などない」と諦めることで 自己の行動が自分では制御できないことを事後正当化する形で満足しているのである

認知的不協和を解消する形で 既存の自己を事後正当化しておいた方が気分的には「楽」なのである

それこそが精神の怠慢である

精神が怠慢だからこそ 渇望のスパイラルから抜け出せない

本当に自己客観性が働いていれば 自分が本当に求めているものが何なのかを見極め 区別認識することが可能となる

 

プラトンもイマヌエル:カントもフリードリヒ:ニーチェも 結局は自己の主観的観念を意識の本質だと錯覚していたのである

意識の本質とは 自己の欲望をも客観視する論理検証性に基づいた目的行動選択可能性に存在しているのである

欲望などというものは自分では選択していないのであって 様々な欲望の中から論理客観的に「本当に自分が求めているものとは何か」を見極められれば 自ずから人間性は発揮可能となるのである

 


既存の自己というものは 本質的には選択不可能だが

既存の欲望の中から「本当に自分が望むものが何か」を論理客観的に見極め 合理的な目的行動選択をする

これが人間としての意識の本質である

利己的に物質的豊かさや権力を求めても 社会が安全でも持続可能でもなければ苦しむ他人で溢れかえる社会になることが「本当に自分が求めているものなのか」

他人の迷惑に配慮せず 利己的に物質的豊かさや権力ばかりを追求している者を尊敬できるのか

自分が尊敬できない者に自分がなってしまえば 自己を肯定することもできなくなるのである

 

本当の創造性

本当に自分の頭で物事を考えられれば 教えられた内容のどこにどのような間違いがあるのかを見極めることは可能である

教えられた内容をただ信じ込み どこに論理的齟齬や飛躍が存在するのかを見極める能力を発揮できるようにならなければ どんなに大量の知識を「知って」いても知能としては発揮されない

自分の頭で考えられるようになるためには 主体性とか自発性を最優先しないとダメで

教えられたことを教えられた通りに憶えて評価になる教育はやめなければならない

学力が高いだけのバカしかいないからこそ 諸問題が一向に解決しないのである

何が間違いで 何が真実なのかを区別できなければ 当たり前の話である

 

 


Ende;

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軽石兵器

2021年10月24日 15時07分56秒 | 日記

海保の船が軽石吸い込んで冷却できなくなって航行不能になったそうな

水に浮くものなら分離できると思うので 分離装置みたいの装備しとかないとイザって時に使い物にならんだろ

海上自衛隊なんぞ特に

 

そういえば 船って航行中に船体の脇から水がチョロチョロ出ているけど あれ冷却のために吸い込んで出しているのね

ってことはだよ 国籍不明の不審船の前に発泡スチロールの粒とかドローン的なもので撒き散らしたら勝手に航行不能に陥って拿捕しやすいとかあるのかしら

まあ 回収したとしても海洋プラスチック汚染になりがちではあるが

長期的には海水に溶けるような粒状のものを使えば良いのかしら

 

でも軽石ごときで動かなくなる艦船って ちょっと頼んないんですけど

 

 

Ende;

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結果的役割

2021年10月23日 23時10分21秒 | 意識論関連

「結果的な役割」があるとしても「目的」の論証には全くならない

イワシが生態系の底辺としての役割を持っているとしても 生態系自体が「結果」に過ぎない以上 いかなる「役割」があろうと生物に「目的」が存在することの論拠にはならない

「役割があるのに目的がない」という話に違和感を「感じる」ヒトが多いらしいのだが

「感じ」ている違和感は主観に過ぎず 何ら論理的根拠にはならない

イワシが自ら生態系の底辺として天敵から大量に喰われるために大量繁殖することを目的として進化したわけではない

大量に子孫が喰われることに合理性などなく あくまで環境に適応した「結果」に過ぎない

それはヒトの免疫系の進化においても同じで ヒトの祖先が「免疫機能を身につけよう」として合理的に選択した能力ではなく あくまで偶然突然変異で免疫機能を獲得した個体以外が全て死滅することで 免疫を持った個体種への置き換わり(収斂)進化が起きた結果に過ぎない

そもそも遺伝的進化というものは主体的に選択不可能なものであって 変異が環境適応できなければ死ぬ以外に選択肢はない

たとえ環境適応能力を獲得したとしても その能力は主体的には選択しておらず 生存は結果であって目的ではない

 

ヒトには先天的な統率協調性を発揮する習性があり これが一面的には治安維持や防衛などに応用可能だからといても ヤクザやテロリストの統率協調的破壊活動の反証には全くならない

特定環境下において一面的に利他的行動習性傾向が「立証」できたとしても 限定的状況以外でも常に利他的行動を採る論証にはならず そんな「立証」を人間性の論拠にするのはただの「こじつけ」にしかならない

 

いくら長文で説明しても誰も理解しないもんだから

短くまとめてみた

 

 

Ende;

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無能者の「お仕事」

2021年10月22日 15時25分56秒 | 日記

警察署に勾留中の容疑者に他人の名前で差し入れをしたとして、有印私文書偽造・同行使の罪に問われた会社員男性(28)に対し、大阪地裁は20日、無罪(求刑・懲役1年6月)を言い渡した。

大阪地方裁判所

 判決などによると、男性は昨年4月、大阪府警箕面署の留置場に勾留中の容疑者に衣服を差し入れた際、申込用紙に弁護士の名前や弁護士事務所の住所などを記載したとして、同8月に逮捕され、起訴まで20日間勾留された。

 男性側は公判で、容疑者の弁護人が知人に差し入れを依頼し、知人が自分に頼んできたと主張。容疑者とは面識がなく、弁護人の名前を書くのが自然だと考えたとして、無罪を求めていた。

 船戸宏之裁判官は判決で「説明は不自然とは言えない」と指摘。「自分の名前を書かなければならないとの認識がなかった可能性がある」として、悪意を持って他人の名前を使ったとは認められないと判断した。

 男性は判決後に「長く勾留され、つらかった」と語った。大阪地検の八沢健三郎次席検事は「判決内容を精査し、適切に対応する」とのコメントを出した。

 出典:https://www.yomiuri.co.jp/national/20211021-OYT1T50067/

 

人畜無害で何の被害もない法手続き上の過失で犯罪者を仕立て上げるというのは

社会安全性よりも利己的業績を目的としたバカ警察署の「お仕事」である

クソしょうもない

 

 


Ende;

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たまごの黄身

2021年10月22日 10時32分05秒 | 写真

フルサイズデータ 5184✕3456 4.2MB

この時点だと周囲の誰も満月が出ていることには気づいていない

 ◇

赤羽のダイエーに入っているダイソーにはスクリーントーンが売ってた

でもちょっと小さすぎやしないですかね

 ◇

歩道にあるアルミ製の柵なんだけど

反射で向こう側が透けて見えているような錯覚を促すもんだから

意識的に「見えてないぞ」って思いながら徐行しないと歩行者とぶつかる

実際にぶつかったこたないが ビックリしたことある

撮影したときは陽が当たっているので歩行者の影が見えるんだけど 曇りの日だと全くわからない

危ない

 


Ende;

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ワクチンとの因果関係が評価不能が99.3%

2021年10月21日 22時59分16秒 | 日記

接種後の死亡例1190名中 ワクチンとの因果関係は評価不能

情報不足で評価できない事例 99.3% (ほぼ全部じゃねぇか ワクチンが原因ではないことが証明されていない事例?の数字だと思う)

個別の死についてワクチン接種との関連を検証する方法が確立されていない

検死解剖をしてもワクチンが原因かどうかが判別できない

副反応検討部会

 

アメリカ VSD(Vaccine Safety Datalink 1990年に創設。 9つの民間の病院群とCDCの共同プロジェクト)

心臓筋膜炎症 数日から一週間の間に発症 胸に痛み 20~30歳代に多い

日本版VSD 個人情報の取り扱いに情報収集の壁 自治体の協力が得られ難い

統計解析に500万人は必要

設立に3年を目途としている (気の長い話だな)

 

⇨一部自治体では接種後にアップルウオッチっぽいものを貸し出しているところもあるそうな 若年層は接種後に何らかの監視体制を採った方が良いと思うんだが

アップルウオッチ的なものってレンタルないのかな でも心臓止まってから救急車来ても間に合わないと思う

まさか接種後に一週間入院させとくのも難しいだろうし

ワクチン接種をしないのに急に死ぬ事例ってどのくらいあるんだろうか

ワクチン接種後に死亡している事例との数に有意な違いって無いのかな

 


Ende;

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誤植

2021年10月21日 17時43分32秒 | 日記

京都大学がPython学習用のPDF配布してるんだが

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/265459/2/Version2021_10_08_02.pdf

キーボード配列に誤植があった

「P」のはずの場所に「Q」が書かれている

ひらがなの「せ」と「た」の両方が「Q」になっちゃってる

これ どうやったら間違えられるのかね

国立大学の教科書みたいなものなので

基本 つまんない

退屈

まわりくどい

もうちょっと楽しくすぐに動かせる入門書みたいの作れないのかね

まあ 無料なので 初めてプログラミングを学ぶには便利かも

 


Ende;

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うっすいらくがき

2021年10月20日 23時55分28秒 | 日記

 

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廃墟

2021年10月20日 14時53分14秒 | 日記

廃墟って映画とかの撮影に使いたい人いるだろうと思うんだが

 廃墟料金所 https://kuruma-news.jp/post/433962

 

 

あ 綾鷹とどん兵衛がコラボしてた

https://msp.c.yimg.jp/images/v2/FUTi93tXq405grZVGgDqG55TuUok74aGR5j448WXX6TM15N53B2dKPJZnIWboq_SL6iiitUf-W3zE5dhcnT73-vHO9-Voh1iMHzjpZfRxniPENgKdA0owmgA81Fa5W18RpXI8zagw7M7s6pqkyURoHcGXg0hHH567pAL8wU_Nm_lmJjvlY0WBEw-coRjZKVRqzioehiM08hygFEaXbfTn2hYT-jEe2RAtB85PhjyR4mfpx8DrTg2wI2XyhwWlNlI/d1735-605-ccee9ed0842cca2d5834-0.jpg

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バカ主義

2021年10月20日 12時11分44秒 | 意識論関連

遺伝的進化というものは あくまで特定の環境に適応したという結果だけであって 目的があるわけではない

「環境の変動に伴って変異が発動する」とか 「環境に適応的な変異だけが起こる」とか そんな話が大衆ウケが良いようですが これらの話には科学的根拠も立証的根拠も何もない ただの妄想に過ぎない

一般大衆の感覚からすると 進化というものは環境変化に伴って都合良くほとんどの個体が生き残れるかのような錯覚を抱いているようだが これが大間違いである

変異自体はランダムで方向性がなく ただバリエーションを拡大するだけであって 変異だけで生存や種の保存に適さない個体も出てくる

しかも 環境に適応的な変異が起きなかった全ての個体種は死滅することで 収斂(置き換わり)進化が生じるのであって 環境変動が起こった場合に大量死滅が起きないと進化にはならない

更に 環境変動に対して適応的変異が追いつかない場合には絶滅(進化の失敗)に至ることになる

逆に ほとんど変動がない環境の場合 変異によって形質や習性が変わらない方が環境には適している場合には 変異した方が死滅することになる

だからシーラカンスとかオウムガイとかナメクジウオとかゴキブリとか 何億年も姿形質が変わらない生物種も存在する

遺伝的進化というのは目的なんぞなくて あくまで特定環境に適応した結果でしかない

洞窟の奥底みたいな環境に適応して眼が退化することもある

「退化」って言いますけど 光のない洞窟では目玉なんぞ要らないので 要らないものに生体資源を取られないように適応進化した結果でもある

だから 遺伝的進化というのは進歩ではない

ヒトの脳が肥大したからといって それ以上に脳が肥大するわけではないし そもそも脳が1400ccもあるのにバカがいなくならず 「へずまりゅう」とか田代まさしみたいなバカも後を絶たない

「生存戦略」だとか行っているバカ生物学者共であっても 田代まさしでも 脳の容積にさしたる違いはない

「感受性」などと称して「主観的感覚こそが自由意志だ」と勘違いしているバカは非常に多い

社会安全性や持続可能性や公平性にとって最も重要なのは 論理客観的根拠に基づいた真理真実「本当のこと」であって レイシストの主観的感覚こそが差別を生み出す原因なのである

多数派で「共感」さえしておけば 気分的には安心満足できるだろう

世間的成功や金儲けにおいても多数派に迎合同調しておいた方が有利であろう

太平洋戦争に突入していった日本人の無為無策や ナチス政権を賛美したドイツ人だけが特別に異常なのではなく ヒトという種の生物というのは社会環境によって簡単に間違った話を鵜呑みにして疑わなくなる先天的な認知的欠陥が普遍的に存在しているのである

バカしかいない社会環境では バカげた話の方が人気が得られるし 金儲けにも有利であり 必然的に「生存」や「種の保存」にとっても適することになる

バカしかいない社会環境では バカへの収斂進化しか起きないのである

ガリレオを火炙りにしようとし ベンヤミンをスイス山中で自決に追いやり 正直者の内部告発者は「裏切り者」として差別排除するのがヒトである

子供だけの集団で放置しておくと自動的自然にイジメ差別が始まるのは ヒトという種の生物には先天的に民族浄化のバイアス(先天的習性)が存在するからである

主観的感覚(無意識)と客観的論理検証性(人間としての本質的意識)を明確に区別するために必要なのは まず本当の意味での主観的な好き嫌いを知ることである

本当の意味での主観的好き嫌いというものは 他人からの評価や報酬に左右されない個人的なものであって 自分が主体的に好きであることが何なのかを知ることにより 結果的に他人の個人的好き嫌いも尊重することができるという客観性も働くようになる

だが 多数他人の価値観に迎合同調しているだけなら多数こそが絶対的な「正義」になってしまい 多様性というものを受け入れる寛容性が失われることになる

自分の好きなものが他人にとっては必ずしも意味や価値がないことを知っていれば 他人の価値観も受容できる寛容さも育つのである

肌が色白な方が好きな人もいるだろうが 中学時代の大森玲子みたいにちょっと色黒なくらいの方がかわいいと思う人がいてもおかしくはない

肌の色が濃い人を見慣れてしまうと 大坂なおみのようなミルクチョコレート色の肌も美味しそうで素敵だなと思えるようにもなる

主観的感覚や好き嫌いなどというものは決して先天的で不変なものではなく 生まれ育った環境によってコロコロと変わる環境依存的な普遍性を持たない個人的なものに過ぎない

中国政府や北朝鮮政府の施策が身勝手で独善的だからといっても 中国人の全てが身勝手で独善的なわけではないし 北朝鮮出身でも同じことである

日本人でありさえすれば善人かと言えば そんなことは全くなく 「へずまりゅう」も麻原彰晃も日本人である

民族国籍で人間としての優秀さやランクが決まるわけではなく ヒト全般における「バカ」か「バカでない」かのグラデーションに過ぎない

それこそ南アフリカのスラムで育ってしまえば粗暴な行動しかできないようになりがちではあるものの これは生育環境が主たる原因であって 先天的にはヒトとして同じなのである

「へずまりゅう」とか田代まさしとか 麻原彰晃とか 迷惑な犯罪者なんぞ挙げたらキリがないが 生育環境に共通する原因があるとすれば これは社会的知識として社会にフィードバックすべき知見である

危険学や失敗学のメソッドに則って 論理客観的に原因を徹底究明し 再発防止への知見「教訓」を導き出すことこそが 社会安全性や持続可能性や公平性にとって最も合理的で効果的な社会制度だと言える

その最大の阻害要因こそが刑法なのである

刑法裁判というのは過去の判例だの判事の心象(主観)だのに基づき 機械手続き的に決定されるだけのものであって 「犯罪者同士の罰の公平性」などという犯罪者以外には何の公平性もない司法手続き上の「論理客観的な根拠のない観念」に基づいた決定がされるだけであって 根拠のない基準に基づいた「妥当性」しか審査されることはなく 論理客観的に社会的合理性は何もないのである

論理客観的合理性が何もないからこそ 建物だの形式に異常な執着をするのである

刑罰というものが あたかも人間としての尊厳であるかのような外見(形式)を装うために まるで宗教施設のような豪華な建築や手続きにこだわるのである

司法役人は社会的合理性なんぞには興味はない 司法役人は既得権益を保守することにしか興味はなく 既存の基準に基づいた「業績(エサ・脳への報酬)」にしか興味はないのである

迷惑者の犯罪者を 国家権力を用いて罰という報復の代替をしても 迷惑者の犯罪者が出てくる原因究明や再発防止にはならない

「上級国民」を拘置所に何年監禁しても アクセルとブレーキの踏み間違い事故がなくなるわけではないし 女子中学生を誘拐監禁した男を9年刑務所に入れておいても「未成年を誘拐監禁するような頭のおかしい男がなぜ出てくるのか」についての原因究明にもならず 再発防止にもならない

これは通り魔やテロリストでも同じである

警察は「テロや通り魔は許さない」などというスローガンを掲げたがるが 「許さない」からといって通り魔やテロが起きなくなる合理的根拠は何もない

「許さない」などというのは 「許したくない」という主観(個人的好き嫌い)に過ぎないのである

ヘイトスピーチに邁進するネトウヨが 「朝鮮半島出身者を許さない」と述べているのと構造的には一緒で 何の客観的合理性も存在しないのである

警察車両による踏み間違い事故や 5歳児を轢き殺した事故に対し 警察は「運転技能訓練(努力)によって再発防止に勉めております」などと言っているが 警察は良いよ 訓練する時間と場所があるからな でも一般ドライバーはそんな暇も資金も場所もないだろ

「努力によって警察だけ事故を減らしました」では意味がない それこそ外見的威信を保っているだけであって 実効的な合理性ある対策には全くなっていないのである

警察も裁判所も 自分達の「業績」にしか興味はなく 社会的な役割には何の興味もない

だから右折禁止の交差点でコソコソと隠れて取り締まりをするだけで 間違って右折しがちなら右折禁止であることがよりわかりやすくする努力もしないし わざと違反する奴に対しては動画撮影などで取り締まるなどの合理的対策もしない

交通違反は現行犯に限られるという手続き上の制限があるというのであれば オービスは違法である

オービスが違法でないなら 右折禁止も動画録画で検挙可能なはずである

バカみたいに暇な時だけコソコソを隠れて取り締まりをしても 何一つ合理的実効性がない

司法裁判も一緒で 「女子中学生を誘拐監禁することは強盗殺人よりも罪が軽い」などと称して懲役9年で本当に更生治療になる保証も証明もないのに 手続き的に決定するだけで 再犯しても誰も責任を負うことはないのである

それこそ「何億円もする高価な美術品を盗むよりは そこら辺をほっつき歩いている女子中学生を誘拐する方が罪が軽いと思った」と述べている犯罪者と 言っている理屈にさしたる違いはない

法手続き上の罪の軽重に拠らず 更生治療が済んでないなら社会に復帰させるべきではない

大衆の大半は「罰で解決」することを望む傾向があるが 松永莉子パパが望むような「再発防止を優先して欲しい」という被害者遺族の願いを無視していることになるのである

それがどれだけ無責任で冷酷な判断選択であるのかすら 大衆は全く自覚していないのである

バカは「上級国民」に「私刑」を執行しておけば満足だが それは松永莉子パパの望みとは全くトンチンカンな利己的満足にしかならない

こうしたヒトの先天的な認知的欠陥に由来するトンチンカンなバカげた「解決」手段というものは 本当の意識というものが何なのかを論理客観的に「理解」しないことにはなくなることはない

ヒトは先天的にバカで 頭が良くなるようには「進化」することもないのである

バカが多いと「困る」からといって 「バカではないような変異しか起こらない」などという科学的には何の根拠もない妄想錯覚を鵜呑みにしているバカの方が大半なのである

バカが大半なら 民主主義的多数決は「バカ主義」にしか陥らない

バカを治さないことには民主主義は正常には機能しないのである

 

 


Ende;

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デマと真実の区別

2021年10月18日 21時24分33秒 | 意識論関連

このグラフってもしかすると2020年段階の話かも知れない

2020年2月頃の段階だと まだ検査や診断の基準や体制が整っていなかった時期になる

しかもCOVID-19って若年層では無症状とか軽症が大半を占めているため 2020年2月の段階では入院数自体が感染者の実態を反映していなかった時期になる

私の記憶だと 2020年2月頃って中国の武漢で感染拡大が発生して大騒ぎになっていた頃で まだ世界的にも未知の部分が多いウイルスだったはずなので ある程度症状が出た感染者しか把握できておらず 結果的に入院者数も少なかったと考えられる

まあ いいや この分析は他の専門家に任せた方が良いかも知れない

 ◇

なんにせよ 従来の進化生物学上の誤謬を基にした「ウイルス弱毒化説」は科学的な説明にはなっていない

田島木綿子(たじまゆうこ)みたいに 遺伝的進化は環境に適応するようにしか変異が起こらないかのように言い張る奴はいるんだけども

これは遠藤秀紀が言う「典型的な間違い」なわけですよ

学校では「生存や種の保存を目的として進化した」的な説明をしてましたよ 今でもしているかも知れませんけど

でも それ 科学的に間違いなんですよ

「生存戦略」だとか未だに言い張る奴は多いですけど 科学って多数決じゃありませんからね 論理客観的に正しいかどうかで決まらないとおかしいんですよ

環境に適応した変異しか起きないというのであれば ヒトの先天性疾患をどう説明するんですか

生まれつき心臓の心室と心房の間の壁が充分ではないまま産まれてきちゃう子供とか

色素性乾皮症みたいに紫外線耐性が全くない子供とか どう説明するんですか

「進化は人間よりも賢い」だとか言うんであれば 先天性疾患で産まれてきた子供は「愚か者」だって話になっちゃうんですよ

それこそ優生学じゃないですか

遺伝的進化が目的とか戦略に基づいているっていう観念から優生学ってのは出てきているんですよ

チャールズ:ダーウィンによる進化の説明はそうじゃなくて 遺伝的進化というものはランダムな変異と淘汰圧力による収斂(置き換わり)による自然現象(結果)に過ぎないって言っているんですよ

遠藤秀紀が言うように 進化にはゴール(目的)はないんです あくまで「その生息環境」への適応であって 死なずに生き残っているものを「生物」と分類しているのであって 「生きることが生物の目的」ではない

更科功とか養老孟司は その部分に言及してこなかったことをはぐらかす形で「生きているだけでも立派なものなのだ」などと主観的形容詞で煙に巻いている

まるで「前から知っていましたよ」と言わんばかりにごまかしている

生物学の教科書のほとんどは「○○のために進化した」という言い回しをしており 教科書を書いている生物学者共はほぼ全員「進化は目的のために起こる」と信じて何も疑ってない

遺伝的進化っていうのはコンピューター上でシミュレーション可能なものであって ランダムに形質を変異させておいて より効率的に泳げるような個体への収斂進化を仮想的に起こすことが出来るんですが

このシミュレーションプログラムでは泳ぎの下手くそな変異の全ては全部殺している

膨大な死滅なくして遺伝的進化なんぞ起きやしないことが証明されている

「環境に適応した変異が増える」なんて言う臨床医もいますけど そんな変異プロセスは立証されていないんですよ

田島木綿子の言う「急激な環境変化が起きると 環境に適応するために大きな変異が起こる」なんつうプロセスのメカニズムも科学的には何も立証されてなんかいませんからね

全部勝手にでっちあげた妄想ファンタジーなんですよ

変異は常に起きていて 変異自体には方向性がなくて バリエーションを拡大するだけ

その後に環境適応できなかった個体の全てが淘汰圧力で死滅することで収斂(置き換わり)進化が生じる

それだけなんですよ

進化っていうのは「結果」であって 別に合理的目的があるわけじゃない

だから突然変異で先天性疾患を持った子供も産まれてくることがある

変異そのものは方向性がないからですよ

その後の環境適応できた者以外が全部死ぬ それが遺伝的進化というものです

環境が違うと形質が違う個体種への収斂が生じる 極端な話 環境が極端に変動がない場合 何億年も形質が変わらないこともある

シーラカンスとかオウムガイとかが典型です ヒトは形質とか習性が変わったケースだけを「進化(Evolution)」って思ってますけど 環境適応の観点からは遺伝的形質が変化した方が淘汰されることもある

だからシーラカンスやオウムガイは形質が何億年も変わらない

でも その代わりに 「その環境」以外では生きられない

それなら ライオンのように進化すればどこでも生きられるのかと言えば ライオンは西表島には適応できない

どんなに凄い形質や能力を獲得していても あくまでその生息環境への適応結果であって 環境が異なると生きられなかったり 逆に環境を食い尽くして破壊するような場合も出てくる

特定外来生物の危険性というのは 長い進化の過程で環境と調和した生態系以外の生物が入り込んでしまうと 大きな環境破壊をもたらす危険性があるわけです

 

化石の研究からは トンデモナイ生物がかつて地球上にはいたらしいことがわかってきている

その当時の環境に適応した結果 今は絶滅していなくなった種が大量に見つかっている

環境の急激な変化に対して 遺伝的進化というものは適応速度が低く 多くの犠牲の上に偶発的に適応できた個体種以外は全部死ぬ

大量に死ぬことで収斂(置き換わり)となって これが進化という形で現れる

だからヒトは ここ数万年は進化していないことがわかっている

ヒトは集団組織を形成し 道具や建築を作ることで 天敵に襲われて死ぬことがほとんどなくなり 自然環境から受ける淘汰圧力の影響を受けないからこそ 身体の大きさが倍くらい違うヒトも珍しくない

爆笑問題の田中裕二と伊集院光が並ぶと 同じ生物とは思えない(当人談)程身体の大きさが違う

バリエーションは拡大しても 環境からの淘汰圧力がほとんど働かないから 収斂(置き換わり)進化は生じない

フランシス:ゴルトンの優生学というのは 遺伝的に進化して より優秀な 生存にとって最適化された完璧な生物へとヒトは進化するものだという 勝手な妄想に基づいた屁理屈でしかない

これを鵜呑みにすると 特定民族人種や障害者を大量虐殺するようにもなる

単なる自然現象の「結果」に過ぎない遺伝的進化が 「目的」にすり替わってしまったからですよ

科学的な客観的事実を認識できないと こういう大失態をヒトはやらかすんです

そういう先天性の認知的な欠陥がヒトにはある

認知的な欠陥があるから 錯覚を錯覚だと認識できなくなる

だから嘘やデマと真実を区別できなくなる

 

 


Ende;

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