書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

つナック

2021年10月17日 17時18分56秒 | 日記

ベビースターラーメンとかで有名なおやつカンパニーが例のものを出してきやがった

 つナック

まだ開けてないんだけど

あの味なのかな

違ったらショックだな

どうなんだろう

 

 おやつカンパニー

 

 

 ◇追記:開けてみた オイラの記憶的には香りの再現度高いと思う

粒がちょっと小さいかな

サクサク感はあるんだけど 明治のアレはもうちょっとザクザクした食感だった気がする

こっちの方が食べやすいとは思う

再現度は92点ってとこかな

 

 

Ende;

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俺の話もきけぇぇ

2021年10月17日 15時58分49秒 | 意識論関連

厚生労働省としては「ゲノム分析では今のところ大きな変化はない。弱毒化しているという変異があるわけではない」という見解が出ており

脇田隆字・国立感染症研究所長も「弱毒化につながる変異が日本のウイルスにあるということはない。動物に感染させて調べないと(確実なことは)言えないが、それを調べるほどの変化はない」と弱毒化を否定している

 

「弱毒化する」って言っている奴はいるよ 確かにさ でもね その説明は従来の進化生物学上の誤謬 遠藤秀紀の言う「典型的な間違い」に基づいたものであって 科学的な説明にはなっていないのよ

だから先ず進化生物学上の誤謬をちゃんと周知しないとデマがなくならないのよ

「生存戦略」だとか「生存のために進化した」なんていう説明の全ては 遺伝的進化が目的に沿って起こるものだという間違った解釈に基づくものであって 遺伝的進化のプロセスというのはそんな都合の良いものではない

遺伝的進化が起きるためには膨大な淘汰による収斂(置き換わり)が必要であって それはもう阿鼻叫喚の地獄絵図 大量死滅を伴う悲惨な環境でないと起こらないものなのよ

ニュージーランドのアナウサギにミクソーマウイルスが感染して大量に死ぬとか

アフリカのサバンナみたいに逃げ足の遅い子供から喰われてゆくとか

アマゾンの密林みたいに枯れ葉や落ち葉に似てない個体が全部喰われて擬態進化が起きるとか

イワシみたいに片っ端からほとんど喰われてしまうとか

完全に喰われないくらい大量に繁殖できたからイワシは絶滅してないけど 絶滅した個体種だって大量にいたはずなのよ

喰われちゃったら化石すら遺らない(そんなこたないか 「遺り難い」とは言えるのかな そもそも化石自体が遺り難いんだけど)

「証拠が残ってないから 存在していない」って話にはならない

理論的には遺伝的進化というものは膨大な淘汰圧力による大量死滅が伴わないと収斂進化は起きないからね

これを主張しているのって私の知る限り遠藤秀紀くらいしかいないんだけど どうも生物学界の「老害」に忖度してコソ~リと匿名で言う奴はいるらしい

 

とにかく 厚生労働省と国立感染症研究所の見解としては「弱毒化はない」としているんだから 言うこと聞け!

 

 


Ende;

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やってみなくちゃわからない

2021年10月17日 15時15分02秒 | 意識論関連

子供は自分では生育環境を選べない

どんな親のもとに産まれてくるのかは 子供自身では選べない

いわゆる「親ガチャ」みたいな話になるんだけど

やっぱり「博士ちゃん」の親御さん達って子供の自主性を凄く大事にしていて 子供が興味を持つことに対して基本的に応援して「味方」になってくれる

でも 多くの子供の親っていうのは そこまで寛容にはなれなくて どうしても自分が育てられた育て方を「連鎖」するような形でしか子供を育てられない

ましてや家庭が貧困だったりすると 子供の自主性なんぞに構っている暇さえなくなる

 

子供が自主性や主体性を発揮するためには なによりも安心できることが基本にある

不安があると 物事に対する視野が狭くなって 物事を自由に考えることができなくなって 主体性を失う大きな要因となる

思春期になれば否応にも将来への不安というのは出てくるものなので それ以外の不安はできるだけ取り除いておく方が子供の思考能力の発達には良い

頭がバカに育つと「へずまりゅう」みたいに社会的に負担のかかる迷惑な奴が出来上がってしまって 結果的に社会的損失にもなる

学力偏差値は関係がない メンタリストのDaiGoが「ホームレスは死ね」と言い出したり 東大医学部の学生が毒ガステロをやらかしたりすることからも 学力偏差値は人間としての知能とは関係がないからだ

「社会性」と称して学校での集団生活に馴染むことや 統率協調性を発揮することも人間性とは無関係であり むしろイジメが蔓延している教室で「上手くイジメられないように振る舞う」能力を獲得してしまっても それは「間違った社会環境への適応」「世渡り上手」にしかならない

間違った社会環境でどんなに「成功」しても 社会環境自体の間違いを助長することはあっても 改善する能力にはならない

ナチス政権下で絶滅収容所の「中佐」になれても ナチス政権の間違いを改善することにはならず むしろナチス政権の異常性を助長することにしかならない

社会の問題点を助長させれば その果てにあるのは暴走破綻でしかない

「社会が間違っている」ということは 「社会の評価基準自体が間違っている」ということである

「社会」とは「多数」と言い換えられるので 「多数の評価基準が間違って」いれば 間違った基準によって間違った評価がされ 間違った行動が助長されてしまうのである

本当に評価されるべき基準が何なのかを 「社会全体」という「多数」で区別認識し共有しないことには社会の間違いは助長されることはあっても 改善することはない

今の日本は太平洋戦争の時のような軍事国家ではないし ナチスやポルポトのような独裁政権でもないのだが 決して何の問題もないわけではなく 様々な諸問題を抱えているのである

貧困格差や温室効果ガスや環境プラスチック削減などなど いちいち挙げたらキリがないほど問題は山積みである

これらの問題が一向に改善しないのは ひとえに社会という多数大衆の価値基準が間違っていることが非常に大きな要因でもある

マナー講師が電車の優先席に座ってスマホに熱中し 年寄にも妊婦にも席を譲らないこともあるという

にも関わらず マナー産業がいつまでも金儲けができるのは 「マナーだ」と言われれば根拠がなくても従うべきものだという錯覚が大多数の大衆にはあるからだ

ダイアモンドオンラインがやたらと「お育ち」云々の記事をせっせと上げてくるのも それがカネになるからである

メンタリストのDaiGoと松丸 亮吾は兄弟であるから 「育ち」にさしたる違いはないはずだが 発言内容には大きな隔たりがあり 決して「育ち」だけで人格が決定するわけではない

「育ち」がある程度良くても 自分の主観的感覚が意識の全てだと錯覚していれば 主観的好き嫌いだけでトンチンカンな「正義」を振り回すようにも簡単になる

これはDaiGoに限ったことではなく ヒト全般に言えることであって DaiGo個人を誹謗中傷したり私刑を執行してどうなるものでもなく むしろ「他人のフリ見て 我がフリ治せ」と言われるように 自分も陥る可能性がある「ヒト全般に普遍的に見られる先天性の認知的欠陥(バカ)」として捉えるべきである

同じ「ヒト」である以上 同じような間違いに陥る危険性はあり得る話である 「絶対に何も間違えないヒト」などいないからだ

DaiGoは間違いをやらかしたものの 時間を置いて冷静になったら間違いを自覚し反省しているのであって 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺犯の植松聖とは少し違う

少し違うのだが 似たような間違いには陥ったのは確かである

学力成績が高く 語学力に長けて海外の論文を読み漁っていても 虐殺犯とよく似た間違いに陥ることがあるのだ

読書猿は学校の勉強を「認知的ワクチン」だと喩えたが 一流大学を卒業していても認知的欠陥は補えないのである

学力偏差値に拠らず ヒトには普遍的に認知的欠陥(バカ)が存在し 間違った観念に陥ってヘイトに陥ることがあるのだ

Microsoft社のTwitterAIがヘイトスピーチを始めたのも Twitter上の数多のヘイトスピーチを深層「学習」したからであり ヒトというのはそれほどまでにヘイトが好きなのである

それは先天的にヒトには民族浄化バイアスが存在し イジメやヘイトを集団組織的に協調して「正義」の鉄槌を下すことが「脳への報酬」として組み込まれているためである

ヒトは他人に暴力的になってテストステロンを「消費」すると セロトニンが分泌されて安心満足感が得られるようになっている

暴力を振るう相手は女房でも子供でも 見知らぬ他人が運転している車でも 何でも良い イジメの標的が誰でも良いように 暴力を振るう相手は何でも良く 要は大脳辺縁系が差別暴力中毒になっているだけの話である

DVの場合は暴力の後に急に優しくなることで「愛されている」と勘違いし 「いつ怒り出すかわからない恐怖による心拍数の増加」が吊り橋効果によって恋愛感情との錯覚を促すことで DV男に貢ぎ続けるという非合理な行動を続けてしまうのである

ヒトにまで進化する以前の祖先の生息環境では 暴力性は過酷な自然環境下を生き延びるためには「必然性」があったが 人間社会の中では何の「合理性」もない

祖先の生息環境によって淘汰収斂進化した結果が大脳辺縁系が促す「情動」の正体であって 過酷な弱肉強食の自然界を生き延びるためには必然性はあっても それが永遠に「絶滅しない」ための合理的目的行動を促すわけではない

ましてや安全性や公平性に適するような淘汰収斂進化のプロセス構造も存在せず 集団組織的に少数派を暴力的懲罰によって排除することで満足感を得られることこそが 非合理な刑法制度に依存し 何の問題意識も働かなくなる原因でもある

 

「上級国民」を寄ってたかって袋叩きにしておけば満足かもしれないが それで踏み間違い事故がなくなる合理的根拠は何もない

未だに踏み間違いによる暴走事故は起こるし 警察車両でも起こしている「実績」がある

「上級国民」に私刑を実行しておけば松永莉子パパの味方にでもなったような錯覚になれるのかも知れないが 実際には松永さんは「再発防止のために一緒に考えて欲しい」と言っているのであって 「私刑」の執行者達はこれを無視して身勝手な満足のために違法な暴力破壊を行っているに過ぎない

八街市の飲酒運転による小学生5名の死傷事故においても 通学路だけ安全対策を施しておけば良いというものでもない

酔っ払って大型トラックを暴走させられたら どこで大事故になるかわかったものではない

「どうして酔っ払い運転なんぞする無責任な奴になったのか」についての徹底した原因究明によって 再発防止策を立てないことには酔っ払い運転事故はなくならないのである

 ◇

自殺者がなぜ自殺を考えてしまうのかと言えば 自由や平等が得られないという 「人間としての尊厳」が守られないからである

また 自発的に物事を考えることが出来なくしまっていることが原因によって 本当は悩まなくても良いことで気分的に勝手に落ち込んでしまうのも自殺の大きな要因でもある

多数に迎合したり同調することが人間性ではない

言葉巧みに金儲けや世間的成功が出来たら「人間として優秀」なわけでもない

既存の「常識」を鵜呑みにする頭の悪さも自殺者を増やす大きな要因でもある

明らかに学校に行くことが大きなストレスになっている兆候があるのに 無理やり学校に通わせるべきではない それは義務教育というものを「無理矢理学校に通わせること」だと勘違いしている頭の悪さが原因である

教育の義務とは本来「子供が学びたいと願うことを大人の都合で制限してはならない」という意味であって むしろ現状の学力偏差値偏重の教育システム 学力ビジネスの方が子供の主体性を蔑ろにし 大人が勝手に決めた基準に基づき 大人の業績(都合)のために子供を評価することによって 学力成績競争に駆り立て不安に陥れている構造になっており これこそがむしろ「大人の都合で学びを制限」してしまっているのである

本末転倒

そりゃ自殺者も増えるわ

子供が100人いれば 好き嫌いも得手不得手も100通りあるはずで

その全てに教師が合わせる必要性はない

生徒それぞれが持っている知的好奇心に基づいて大量の知見知識を与え その中から生徒自身が選び出せるようにしておけば 子供は主体的興味さえ持ってしまえば自ずから物事を学習するようになる

学習するのみならず 自分でも物事を「考える」ようにもなる

本来 教科書なんて読めば解る内容であって 自発性があれば教え込む必要性なんぞないのである

子供の主体的興味もないことを無理矢理教え込もうとするから手間がかかる上に テストが終われば全部忘れてしまうのである

「テストの成績=教師の業績」という構造が根源的に間違っているのである

そもそも学力成績は本質的知能でもないのに 教師の業績のために生徒をエサにしていたのでは教育というものの社会的役割を完全に放棄している

無駄にも程がある それで「教師の過重労働」だとか言っても バカがバカげた基準で働かされていることに気付かないから バカげた無駄な労働が増えるのである

物事を知ることというのは本来楽しいと思うものであって 苦しいとかツラい時点で間違っているのである

 

どっかの中学だか高校だか忘れたが ニワトリを有精卵から育てて最後にはシメて唐揚げにして食べるという授業があって でも最後の「ニワトリをシメて食べる」授業の参加に関しては生徒の任意になっている

全部任意参加で良いんじゃないかと思う

人それぞれ得手不得手があるんだから 「苦手なことや嫌いなことはそんなにやらなくても良いから 得意なことや好きなことを伸ばした方が良い」(故益川敏英)はずである

学力成績競争が「他者から与えられるエサ(脳への報酬)」になってしまっているからこそ 自発的思考が働かなくなるのであって それは「チンパンジーの瞬間記憶能力」や「課金してまでやり続けるクソゲー」と同じで 環境依存的なものであって 本質的には自発的な行動ではない

「好きなこと」と一言で言っても サッカーの応援でフーリガンが発生するのも 酒に溺れて自動車運転中に飲酒しだすのも 麻薬中毒になるのも一緒で 本当は自発的なものではなく 本当にやりたいと思う純粋な好奇心がないからこそ 他人の迷惑に配慮が働かないバカが出来上がるのである

脳が気持ちよければ何でも「本当に好きなこと」や「純粋行為」になるわけではない

何でもかんでも大人が強制するから 同じことが出来ないと劣等感を持ってしまうことになる

出来ないことがあっても構わない

人それぞれに違うからこそ 互いに補い合って助け合うのであり

違いを許容できなくなるから差別も始まるのである

そりゃ中には「何でもできちゃう子」というのもいるこたいるんだが それが幸福なのかどうかは本人次第であって 「何でも出来る」とは言ってもイジメや差別が止められるわけではない以上 別に「人間として優秀である」ことの根拠にもならない

イジメや差別まで止められたら完璧だろうけど それが出来る子がいたら その学級の自殺もなくなるだろうよ

世間的な基準で「何でも出来る」とは言っても 貧富格差の根源的原因究明と再発防止にまで言及出来るわけでもなかろうて

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」には論理客観的根拠が示されていないことに気付ける子もほぼ全くいない

「教えたことが教えた通りに答えられる」とか 「運動能力が高い」とか その程度の「何でも出来る」という話は 本当は大したことは出来ないのである

「自分には苦手なことがある」という自覚があるからこそ 努力するんであって 「説明が下手くそ」だという自覚があるからこそ面倒くさいけど「誰も読まない説明」を続けるんですよ

「心が折れている」暇なんかない

そんなもん「個人の主観的感想」でしかないからね

 

本当に生きているのが出来ない程苦しいと言えるのか

原発事故で親から受け継いだ家と田畑を全て失い 避難所に連れていけない犬にエサを与えるためだけに防護服を着て家に戻る度 荒れ果ててゆく家と田畑を目にして絶望し 柳刃包丁で自らの腹を裂いて自決した農家の苦しさや

放射能汚染された乳牛の乳を毎日絞っては川まで棄てにゆくことに絶望して首を吊った酪農家や

津波で息子を漁船や家ごと持っていかれ たった一人生き残った高齢の母親の絶望や

親兄弟を殺され自らの名前も知らぬ孤児となって生き残ることの悲しみほど苦しいと言えるのか

 

よくよく考えてみれば イジメが蔓延しているようなバカな生徒しかいない学校に通うのがツラいなんてのは むしろ当たり前の話であって 絶望するほどのことではない

バカならバカの群れに馴染めるだろう

バカの群れに馴染めるには バカでなければ無理である

ナチス政権下でナチスに馴染んでどうする

ミャンマー軍政権の中で 国民弾圧に馴染んでどうする

北朝鮮政府に馴染んで 北朝鮮政府の意向に馴染んで何の意味がある

無謀な太平洋戦争に日本が突入したのも その時代や社会に多くの国民が馴染んでしまったからである

今の時代 別に世間の多数他人に逆らったからといって投獄されるわけでもなければ 家族を殺されるわけでもない

「コロナウイルスの弱毒化はデマです」と多数に逆らったところで火炙りにされる時代でもないのである

自分の目先の主観的感想が自分の意識の本質だと錯覚しているから 悩まなくて良いことで落ち込んだりするのである

「強い」人なんかいないし 「強く」ある必要性もない

どうせ世の中の大半はフリードリヒ:ニーチェのゾロアスター教を哲学だと勘違いしているバカであって 到底「知的生命体」でも何でもないのである

落ち込んでいる暇があるなら むしろその原因究明と再発防止を考えるべきである

そうすりゃ少しは世の中の為になるかもしれない

ならないかも知れない

何でもそうだが

「やってみなくちゃ わからない」

学校の勉強をいくら頑張っても それが自分や社会の為になる保証もないのである

多数に迎合していれば気分的には安心かも知れないが 誰も何も保証はしてくれない

社会(多数)というのは 所詮そういうものである

 

 

 

Ende;

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私刑

2021年10月16日 11時48分00秒 | 意識論関連

「犯罪者」だからといって何をしても許されるわけではないのだが

社会制度として刑法で罰を規定しているからこそ罰が正当化できると錯覚するバカが増える

ヒトである以上 誰でも過失はある 被害が出た時だけ大騒ぎして罰で「解決」だと終わらせてしまうことには合理性がない

重大事象が発生する前から軽微な過失を丁寧に原因究明し 再発防止策を周知することこそが 社会安全性にとってより合理的なのであり たまたま重大事象に発展してしまった加害者を寄ってたかって袋叩きにしても再発防止には一切ならない

それは野蛮な「サルの正義」である

公的資金を投入する以上 社会安全性を最優先すべきであって 大衆のご機嫌取りのために罰で終わらせるというのは無責任である

 

 

 

Ende;

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片山泰輔(大手町リーレクリニック)

2021年10月16日 10時54分53秒 | 意識論関連

大手町リーレクリニック 片山泰輔医師が根拠としている国立国際医療研究センターのPDFファイルへのリンクがサイトのリニューアルで切られていた

リンクが切られる前のPDFから片山医師が弱毒化の根拠としているグラフを提示しているのだが

入院者数に対して重症化した数の割合が減っていることを根拠にしているが 6月というのは重症化しやすい高齢者へのワクチン接種が急激に進んだ時期であり 弱毒化で重症化が減った要素だとこじつけるのは無理がある

リンクが切られる前にPDFを素人なりに読んだが 国立国際医療研究センターとして客観的データを公開していただけであって「ウイルスが弱毒化している」という見解はどこにも書いてなかったはずである

何にせよ「ウイルスが困る」から「適応的に変異が起こる」というのは論理が飛躍しており科学的論証にはなっていない

弱毒化が起きる構造が論理的に説明できていない上に 更なる強毒化が起きる可能性も否定できないのであり 安易に「(弱毒化を)期待して良い」などと言うべきではない

危機管理の観点からは最悪のシナリオに備えるべきである

 

 

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直江 将司(なおえ しょうじ)

2021年10月15日 20時35分43秒 | 意識論関連

ナッツは土に埋めて欲しくて進化した

土の中に貯蔵する動物を利用

1:熟す前に食べられないよう果肉を不味くした

2:種を巨大化させた

3:豊作と凶作を繰り返すことで害虫の繁殖を抑える

これらの作戦を実行

 

⇨根本的に自己の遺伝子は自分では選択することができないので 意図的に「作戦を実行」することはできない

種の保存にとって有効な様々な形質であっても ナッツの木が意図目的の為に合理的に選択したわけではなく 長い間に淘汰圧力が働くことによって収斂が生じ 結果的に環境に適応しただけである

植物には物事を考える脳もなく そもそも遺伝的形質を自分で選択することは原理的に不可能であり 「生存戦略」という概念は科学的論証ではなく 立証不能の観念でしかない

 

 

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遺伝的進化に対する誤謬(間違った解釈)

2021年10月15日 13時36分52秒 | 意識論関連

遠藤秀紀が述べている遺伝的進化についての理解における「典型的な間違い」について論じておこうと思う

従来一般的に 遺伝的な進化というものは 最初に「生存」とか「種の保存」といった目的に沿って合理的に選択したものであるかのように解釈されているが これが間違いなのである

遺伝的進化というものは 突然変異と淘汰圧力のセットで生じるものであり このうち突然変異はランダムに生じるものであって 「環境に適応出来る変異」以外にも「環境に適応出来ない変異」もあれば「何も変わらない」場合もある

「変わらない」のに変異とはどういうことかと言うと 染色体を構成するゲノム配列には遺伝に影響を及ぼす領域と 何の影響も及ぼさない冗長な領域があって ゲノムの中の冗長な領域に変異が起きても遺伝的には何も影響を及ぼさない

どのような変異が生じるのかはランダムでカオスなため そもそも生物やウイルスとしてすら成立しない変異が起こることもある

親世代に特に先天的疾患がなくても 子供に先天性疾患が生じることもあり 配偶交配というのは種の保存の仕組みでもあるが 変異を促す仕組みでもあるため 変異といものは悪い方向に働くこともある

 

遺伝的進化というものは 変異によってバリエーションが拡大した後に環境など様々な影響によって淘汰圧力がかかり 環境に適応した個体種や株種への収斂が生じた結果を「遺伝的進化」と言うのである

「収斂」などという進化生物学界隈でしか使われない言葉を用いてしまうと一般人にはわかりづらくなるかも知れないが 要約すれば「置き換わり」と意味は一緒である

COVID-19ウイルスにおいて デルタ株への「置き換わり」が起きたのは デルタ株の感染力が他の株種に比べて感染能力が高いため より拡がりやすく ヒトが行う感染予防対策環境下においては感染力が弱い株種は感染しづらく 感染しやすい株種は文字通り感染が拡がるため 結果的に「置き換わり」が生じ この「置き換わった」結果のことを収斂進化と言うのである

ミクソーマウイルスがアナウサギに対して弱毒化したのは 95%という高い致死率によって密が解消し 感染が拡がり難い状況になったために 致死率の高い強毒株に感染したアナウサギごと淘汰死滅し 偶発的に発生した弱毒株に感染したアナウサギの方が多く残ったため
収斂(置き換わり)進化が生じたのである

遺伝的進化が生じるためには 膨大な死滅が必要条件であり これはヒトの文明社会では放置されることはない

大手町のリーレクリニックは 「ウイルスが困る」などという理屈を持ち出しているが 「困った」からといって変異が環境に適応的にしか起こらないメカニズムは存在せず 変異は常にランダムである

変異自体は個体の意図目的とは無関係に起こるものであって 誰も望んで先天性疾患を持って産まれてくるわけではない

「進化は人間よりも賢い」などと形容したバカもいたが 進化の結果だけを見て あたかも意図目的にとって合理的に選択したかのように遺伝的進化を誤解しているだけであって 偶発的適応の積み重ねの結果に「賢い」もヘッタクレもないのである

1/1000垓の確率であったとしても いつか必ず起きるのであって どんなに少ない確率であろうとも バクテリアからヒトへの進化は実際に起きたのである

遺伝的進化というものは あくまで自然現象であって 膨大な無駄(失敗)の果てに偶発的に環境適応を積み重ねた「結果」に過ぎず 意図目的や合理性が存在するわけではない

「生存」や「種の保存」にとっての必然性が合理性のように見えるのは 「生存」や「種の保存」という結果に対する必然性に過ぎず 「死ななかった個体が生きている」という どうにも当たり前(必然)の結果を述べているに過ぎない

何度も言うが 遺伝的進化が促される過程では膨大な失敗(死滅)が必要であり 結果だけを見て「賢い」だの「合目的的」だのといった解釈形容詞は科学的には意味がない

どんなに「頑張ろう」が「思おう」が「願おう」が「祈ろう」が「呪おう」が 遺伝的性質は生まれる前から決定されているものであって 誰にも選択不可能なものであって 変異や淘汰圧力に合理性が伴う理由は何もないのである

 

 


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行動主義 対 認知主義

2021年10月14日 22時51分06秒 | 意識論関連

行動主義の考え方
→行動は遺伝と環境、および個人の経歴によって決定されると考える。言い換えると、行動主義の考え方では、人間が自分の意志で判断や決定を行うとは考えない
→行動は、遺伝や環境や文脈にとって決定されるというこの考え方は決定論と呼ばれる

認知主義の考え方
→人間は意識的に考え、意思決定を行い、感情を感じることが出来ると考える

 出典:https://liberal-arts-guide.com/behaviorism/

 

⇨従来の「行動主義 対 認知主義」の議論自体に著しい間違いがある

ヒトの意識の9割は無意識であり 遺伝と環境によって刷り込み学習された常識や観念によって条件反射的無意識に決定されてしまう

無意識に決定されてしまうのは 先天的本能習性によって促される情動自体が無意識的条件反射だからである

情動(感情)そのものが無意識だからこそ 情動によって促される行動意思決定は無意識なのである

 

ヒトが物事を判断選択する場合 気分的に安心で満足感が得られる選択を優先する傾向がある

気分的に安心満足という情動による選択を 主体的意思決定であると「思って」いる

だが そもそも気分的な安心満足感というものが主体的に選択されたものではないのであり 気分的な安心満足感が得られることに論理客観的根拠に基づいた合理性や効率性が伴うわけではない

例えば 哲学界においてマルクス:ガブリエルの主張に人気があり 多数の哲学研究者が「新時代の哲学だ」と「思って」いれば 誰もマルクス:ガブリエルの主張に根拠がないことには意識が働かなくなる

フリードリヒ:ニーチェやイマヌエル:カントも同様に 論理客観的な根拠がなくても主観的に気分が良くなったり満足感が得られさえすれば盲目的に信奉されてしまうものなのである

これは ヒトには条件反射的無意識にデマや嘘を鵜呑みにするという先天的な認知的欠陥が存在しているためである

センセーショナルで面白いと「感じ」られる話に主観的に感動し 情動が大きく動かされることによって あたかも自分が意識的に「感じ」 主体的に意思選択をしているかのように錯覚しているからこそ デマや嘘でも鵜呑みに出来るのである

ヒトの多くは「主観」を「主体的選択」と勘違いし錯覚しているのである

本当の「主体的選択」とは 既存の自己における「主観」に左右されない客観的論理検証性(理性)の中にある

 

そもそもヒトは自分の脳を自分で選択していない

自分の遺伝子を自分では選べない原理的構造からは 自分の先天的情動自体を選ぶことは出来ないのである

「欲望自体を欲することはできない」のである

自分の先天的情動や欲望というものは あくまで祖先の生息環境の影響を色濃く反映し 客観的合理性の根拠は伴わないのだ

既存の自己そのものは 自己自身では何も選択していないのである

先天的本能習性も 社会や時代から刷り込み学習された価値観も それらは本質的には自分では選択していない

たとえば上流階級出身で 高名な科学者チャールズ:ダーウィンの従兄弟であれば 主張に主観的「説得力」が伴うことで 優生学のような非科学的オカルト観念であっても信じ込まれてしまうのである

ヒトは 先天的に懲罰で何かが解決すると主観的には「思って」いるが 実際には危険学や失敗学の観点からは刑法懲罰は一時停止させて徹底した客観的原因究明や再発防止を優先させるのである

これらは主観がもたらす錯覚によって 根拠も合理性もない行動選択を条件反射的に行ってしまうというヒトの先天的な認知的欠陥が原因である

行動主義派は「行動は、遺伝や環境や文脈にとって決定される」だけだと主張し 予め決まった運命的な決定論的選択しかしないものであると決め付けている

しかし 残念ながらヒトの大半は自分では何も選択していない既存の自己の主観による判断選択だけしかしないため 嘘でもデマでも簡単に信じ込み 何が本当の真実なのかを自分の頭で考えて判断することはしない

一方の認知主義派は「人間は意識的に考え、意思決定を行い、感情を感じることが出来る」としているが 意思決定の基準が主観だけである場合には 結局は行動主義派と同じ決定論的選択にしか至らない

既存の自己の主観的価値観や常識に対し 自己客観的に論理検証することによって 遺伝要因や生育環境に依存しない本当の主体的選択「も」可能となるのである

本当の主体的選択「も」可能ではあるが 自己客観的に主観的観念や常識をも疑わなければ不可能でもある

人間としての意識の本質とは 主観に左右されない客観的論理検証性に基づいた判断選択であり これがない行動の全ては予め運命的に既に決定論的に行動は予測可能な条件反射に過ぎない

犯罪者の行動がプロファイリング可能なのは 犯罪者というのは目先の欲望に踊らされているだけの無意識な行動しかしないからである

 

ヒトの大半はイマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容が 論理客観的根拠に基づいた「哲学」だと未だに錯覚している

大学で「哲学」として教えている内容でありさえすれば どんなに偏差値の高い学生であっても疑うことをしなくなるものなのである

奨学金という借金まで背負わされているのに まさか「大学で教えている内容が間違い」だとは 誰も夢にも「思わ」ないのである

だが 論理客観的に検証すれば 「絶対に知覚できない叡智界」なんぞ何も根拠がないカントの勝手な決め付けでしかないことは明らかである

「なぜ絶対に知覚できないと言えるのか」の説明もなければ 「なぜ知覚出来ないものが存在すると言えるのか」の根拠も説明されていない にも関わらず大学出身者の誰も 哲学界の誰も 「叡智界」がカントの妄想に過ぎないことには気付かない

これは ヒトという種の生物が先天的に認知的欠陥(バカ)が存在しているため 運命論決定論的に誰も「この話おかしくね?」とは「思わ」ないのである

 

バカをバカという以外に形容詞があることは知りたいとも思わなかったが 認知的欠陥と言い換えることは可能だった

 

「行動主義 対 認知主義」という議論自体がそもそも間違っているのであって どちらも結局は無意識な条件反射行動しか論じていないのである

先天的な認知的欠陥を自覚し 欠陥を補う形で本当の意味での主体的選択を行うことによって 運命的な決定論 すなはち無意識から脱することが可能となるのである

実証不能の神や 大学で教わった内容を どんなに強く「信じたい」と思っても むしろその「思い」の強さ故に客観的根拠を伴う真理から遠ざかることになるのである

認知的不協和とは 要するに「気分の悪い話」のことである

一度自分が過去に信じた話を否定されると 過去に信じた自分の判断をも否定されることになり 気分が悪くなるので反射的に拒絶するようになる

自分の主観的感情が意識の本質だと勘違いしているからこそ 自己客観性を簡単に喪失し 主観的感情によって条件反射(運命論・決定論)的に拒絶するのである

 

認知主義派の「人間は意識的に考え、意思決定を行い、感情を感じることが出来ると考える」という主張は そもそも何が本当の「意識」なのかを理解していないからこそ「感情を感じることができることが意識だ」という勘違いに基づいた主張をしているのである

パブロフのイヌのような条件反射であっても エサが貰えることが食欲(情動)と直結している行動であって 情動こそが無意識な条件反射行動を促すのであって 人間としての本当の意識とは客観的論理検証性(理性)に基づく合理的な根拠を伴う判断である

本当の合理的判断とは 決して利己的なものではなく 自律的な社会的責任判断であり これは行動主義でもなければ認知主義でもない

自律的な社会的責任判断を伴うからこそ 人間としての「心」としても機能するのである

「生存」を目的とした利己的行動選択は 本当は人間としての合理的判断には該当しない

何をどう「感じる」かは人それぞれであり 一貫性はない

何をどう「感じ」るとしても 社会安全性や持続可能性にとって合理性のある判断には 人間としての一貫性は存在するのである

主観的な「思い」の強度程度は 意識の本質の論拠にはならない

 

 ◇

「リベラルアーツ」と言いながら 教え込まれた内容に論理的齟齬や誤謬があっても疑うことなく鵜呑みにしてしまうからこそ 「自由な発想」が出来なくなるのである

 

個人的には 自分の頭で物事を考えられるようになるためには モノ作りをすることが有効なんではないかと思っている

ダンボール工作であっても 論理的に考え設計しなければ思ったように具体的な形にはならないため 素材の性質を見極め 手順を順序立って計画しなければならない

プログラミングも同様である 「素材」が「オブジェクト」や「関数」になっただけのことである

机上でどんなに大量の知識を教え込まれても 反って思考にバイアス(偏り)が刷り込まれてしまって思考の自由度を失うことにもなる

いわば 誰かが作ったモノをただ利用しているだけのような状態になってしまい 利用しているモノに欠陥があることには意識が働かなくなってしまうのである

最初から自分で組み立てたモノや理論であれば どこに欠陥があるのかは組み立て直したり 新たに作り直したりすることが可能になる

何が「本当のこと」なのかを見極める思考の試行錯誤をするためには 他人から「誰かが作った理屈」を与えられるだけではなく 自分の頭で考えることが必要である

自分で物事を検証するために必要な能力とは 他人から教え込まれた内容を鵜呑みにし 教えられた通りに答える能力とは全く別のものである

「勉強さえすれば頭が良くなる」というのは 大衆観念でしかなく 論理的にはデマでしかない

だからこそ東大医学部の学生がテロを起こしたりするのである

 

 

Ende;

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呑気なデマ

2021年10月14日 14時14分16秒 | 意識論関連

遺伝的進化が起きるためには淘汰圧力による収斂が必要であり 環境に適応できなかった個体の全てが死滅することでしか遺伝的進化は生じない

アフリカのサバンナの草食獣は 逃げ足が遅いと「困る」からといって 変異の全てが適応的な個体への変異しか起こさないなどという話にはならない

困ろうが何だろうが変異は常にランダムであり 逃げ足の速い個体と遅い個体の両方への変異が常に起こるのである

その後に環境に適応している逃げ足の速い個体以外 逃げ足の遅い個体の全てが淘汰されることで収斂が生じ 結果的に遺伝的進化となるのである

遺伝的進化が生じるためには 常に大量の淘汰死滅が必要であり だからこそ文明社会においてヒトは遺伝的進化をほとんどしなくなったのである

 

天動説が「常識」の社会環境においては地動説は火炙りにされる

真理が常に環境に適応的であるわけではない

バカが大多数を占める社会環境においては バカでない者が環境に適応的であるわけではない

ヒトの多くは養老孟司のように学術権威の肩書があり 著作が売れて世間的に成功した者の発言は 多数によって内容が担保されているものだと錯覚する傾向がある

優生学の父と言われたフランシス:ゴルトンは チャールズ:ダーウィンの従兄弟で上流階級の産まれであったことから 世間的に成功していることで内容が担保されていると錯覚されたため 優生学などというオカルト観念までをも長期に亘(わた)り生物学界で信じ込まれてきたのである

 

遺伝的に進化が生ずるためには 強力な淘汰圧力が必要であり 多数が死ぬような過酷な条件でなければ特定の能力が発達強化することはない

草食獣の繁殖能力が高いのは 繁殖能力が低い生物種が全て淘汰された結果であって 「困る」から繁殖力が高くなったわけではなく あくまで繁殖力の低い個体種が全て死滅した結果でしかない

正直者がバカを見るような環境の中では 正直者への収斂進化は生じることはなく むしろ巧妙な嘘つきへの収斂進化しか促されることはない

 

 

何だろう 論理客観的にメカニズム構造を説明してもバカだとわからんのかしら

結論から言えば 遺伝的進化が生ずるためには大量に死ぬ環境が必要であって 文明社会ではヒト自体も進化することはないのである

ミクソーマウイルスがアナウサギに対しての弱毒化が生じたのは あくまで自然環境下による強力な淘汰圧力による大量死滅が起きたからであって COVID-19程度の致死率では弱毒化は生じることはない

逆に エボラウイルスのように致死率が高い場合こそ弱毒化は生じてくるのであって 宿主ごと死滅してしまえば残れないからこそ 宿主を死滅させない程度の毒性を持った株への収斂も生ずるのである

COVID-19ウイルスにとって ヒトという環境資源は非常に潤沢であり 当面は種の保存にとっても「困る」ことはない

毒性が強くなろうが何だろうがCOVID-19ウイルスにとっては何も「困ら」ないのである

宿主という環境資源が潤沢にある以上 別に弱毒化する必要性もない

同時に強毒化する必要性もないのだが どちらに変異が起こるかはランダムであり「わからない」のである

元々鼻風邪ウイルスだったコロナウイルスが強毒化する必要性もない

必要性がないのになぜ強毒化したのかといえば 変異がランダムにしか起こらないからである

必要性のない変異は起こる 変異自体には目的はおろか方向性も必要性も何もないからである

生物史の中では過去にトンデモナイ進化を遂げた生物種が存在したことが明らかになっている

ダンクルオステウスのように異常なまでの巨大で強力な顎を持った魚への進化が促されたこともあったが それはあくまで「その当時の生息環境」に適応した結果であって 強力な顎がないと生き続けられないような環境下においてのみ起きた進化であり 進化の果てに絶滅しない保証は何もない

遺伝的進化には目的があるのではなく あくまで生息環境への適応が生じた結果だけであって 進化の果てに生き残れる保証は何もないのである

進化が永遠に「成功」し続けられるわけではないからこそ 長い生物史の中では絶滅した生物種というのが無数に存在しているのである

 

ウイルスの場合は 宿主と一蓮托生であり ウイルスが進化するためには宿主も淘汰圧力を共有しなければならない

治療も感染防止対策も何もせずに感染を拡大させ 感染が起きにくいような状況にまで密が解消すれば 弱毒株への収斂が生ずるメカニズム構造も働くが

宿主が地球上に80億個体を超えるという潤沢な環境資源がある状態では弱毒株への収斂進化は促されることはない

ウイルスというのは 自然環境において異常繁殖した個体を一気に減らす「役割」を持っている

赤潮に寄生するウイルスは赤潮を解消するのである そして充分に密が解消すれば弱毒共生進化への収斂が生じ 宿主を絶滅させない程度の毒性に収斂進化が起こるのである

ヒトが意図的に密を解消すれば 感染拡大は抑制されることになる だが これでは強毒株が宿主ごと死滅する条件にはならないため 弱毒化への収斂は生じない

そもそもコロナウイルスというのは発症する前に他の人に感染する性質があるため 強毒株が宿主を殺しても強毒株だからといって淘汰圧力は働かず 弱毒株への収斂進化は生じない

コロナウイルスはSARSやMARS そして今回のCOVID-19のように 数年に一度の割合で強毒性を発揮することがある それならCOVID-19ウイルス感染を長引かせれば 更なる強毒変異を引き起こす可能性もあり得ることになる

感染力は強くなる方向にしか収斂は生じない以上 高い感染力を持った強毒新型コロナウイルス株が生じてしまう可能性も考慮に入れておく必要がある 断じて「そのうち弱毒化する」などという呑気なデマを信用すべきではない

感染してしまうと高い確率で後遺症も出ることからも 感染して人類にとって有利になる要素は何もない

ヒトの文明社会というのは 自然界の過酷な生存競争とは全く異なる環境であり 到底同列に比較することなどできないのである

どうしてこんな簡単な話すら理解できないのか そもそもなぜ自分で考えて気づくことができないのか こっちが知りたいくらいである

 

脇田隆字・国立感染症研究所長も厚生労働省も弱毒化の兆候は見られないという見解を出している

にも関わらず「ウイルスは弱毒化する」などと論理的根拠も示さず主張している医師や研究者は無責任である

医療関係者がエッセンシャルワーカーだからといっても 無責任なデマを垂れ流して良い理由にはならない

 

Ende;

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進化万能妄想

2021年10月14日 01時08分45秒 | 意識論関連

ウイルスが生き残るためには、宿主(今回なら人)に死なれてが困ります。

困らないように進化するメカニズムはない ヒトが先天性疾患を持って産まれてきてしまうと困るからといって先天性疾患がなくなるわけではない 死ぬか生きるかは結果であり目的ではない

宿主が死ぬとウイルスも生きられないからです。

ですので致死率が低く、かつ感染力の高いウイルスが生存に適しています。

適しているからといって都合良く適した進化が起きるわけではない 進化の果てに絶滅することも充分にあり 生物史の中では幾度もの大絶滅は起きており 中間種のほとんど全ては絶滅しているのである

変異しやすいRNAウイルスではそういった環境に適したタイプのものがどんどん増えていきますので、それにより弱毒化が起こります。

一体どういう淘汰圧力がかかれば弱毒化への収斂進化が起きるのかについて論理的説明にはなっていない

 

 出典:大手町リーレクリニック

 

⇨環境に適した個体種や株種であれば生き残れるのだが 環境に適した個体種や株種以外が全て死滅し 偶発的に環境に適した個体種や株種だけが残った結果が遺伝的進化というものであって 遺伝的進化が起こるためには膨大な死滅(失敗)が必要である

アナウサギとミクソーマウイルスの場合には 最初に膨大な死滅があってこその弱毒化であって それでも致死率は50%にしか低下していないのである

これはヒトのウイルスで言えばエボラ出血熱ウイルスに相当する致死率であり アナウサギほども繁殖力があってこその共生可能なものであって ヒトでこれが再現されれば医療どころか文明ごと崩壊する

現在の生物相というものは 過去に膨大な死滅を伴った収斂の結果であり 収斂が生ずるためには適応した個体以外が全て死滅する必要があり 都合良く適応した個体や株種だけが増えるメカニズムは存在しない

遺伝的進化の結果だけを見て あたかも進化のほぼ全てが成功しているかのように錯覚し 全ての生物種やウイルス株種の全ても必ず進化に成功するかのように錯覚するのはトンデモナイ大間違いである

 

 

Ende;

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典型的な間違い

2021年10月13日 21時39分55秒 | 意識論関連

コロナウイルスは弱毒化しているのか?

この噂の出所は、英国紙ザ・テレグラフ電子版6月20日の記事で、イタリアで新型コロナウイルス患者の治療にあたっていたたサンマルティノ病院の感染症部門の医長マテオ・バセッティ教授のインタビューでの回答によるものです。このインタビューでマテオ・バセッティ教授は自身が新型コロナウイルスの治療にあたっているうえで、3月から4月あたりのウイルスと今のウイルスでは明らかに変異しているという実感があり、少し前までは重症肺炎、呼吸器が必要な患者が多かったのに対して、今では新型コロナウイルスの感染者は軽症であることが多いという見解を話しています。イタリアでは高齢者の新型コロナウイルス感染者は2~3日で死亡してしまっていたのに対して、今感染したという方は、機械を頼らずに呼吸ができているという点でも新型コロナウイルスが弱毒化しているのでは、という見解を示しています。

しかし、いずれにせよ感染者数はまだ増えていることや医学的に研究をされたわけでもないため、この話は新型コロナウイルスに対して最前線で戦ってきた医師が治療にあたってきたうえでの体感という捉え方をしておくと良いのではないでしょうか。

 出典:https://www.clinicfor.life/articles/covid-052/

CLINIC FOR

 ◇

以下厚生労働省による見解

「ゲノム分析では今のところ大きな変化はない。弱毒化しているという変異があるわけではない」

 出典:https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4376454.html

毎日放送TBS

 ◇

脇田隆字・国立感染症研究所長は会見で「コロナウイルスが弱毒化したのでは」という見方が出ていることについて、「弱毒化につながる変異が日本のウイルスにあるということはない。動物に感染させて調べないと(確実なことは)言えないが、それを調べるほどの変化はない」と否定した。

 出典:https://www.asahi.com/articles/ASPB666JGPB6ULBJ00Y.html

朝日新聞

 ◇

イギリスのテレグラフなどによりますと、オックスフォード大学のサラ・ギルバート教授は22日に開かれた講演の中で、一般論として「ウイルスは免疫が高まった集団に広がると、時間とともに毒性が弱まる傾向にある」と指摘しました。 こうした場合、ウイルスは行き場が少なくなるため、新型コロナウイルスが致命的な変異を起こす可能性は低くなるということです。 教授はその上で、新型ウイルスの症状は今後は軽くなっていき、最終的には季節性の風邪を引き起こすウイルスの一つになるとの見通しを示しました。

 出典:日テレ(Yahoo!NEWSからの引用で 日テレの記事本体は見つけられなかった)

行き場が少なくなると致命的変異を起こす可能性が低くなるメカニズムはない

変異は常にランダムであり 致命的変異を起こす可能性が下がる構造の説明は存在しない

 ◇

ウイルスが生き残るためには、宿主(今回なら人)に死なれてが困ります。

宿主が死ぬとウイルスも生きられないからです。

ですので致死率が低く、かつ感染力の高いウイルスが生存に適しています。

変異しやすいRNAウイルスではそういった環境に適したタイプのものがどんどん増えていきますので、それにより弱毒化が起こります。

 出典:大手町リーレクリニック

 


大手町リーレクリニックの説明は科学的ではなく 「ウイルスや生物が合目的的に遺伝的進化をする」という従来の進化生物学上の誤謬に基づいたデマであり ダーウィンの進化についての説明を理解していない者の錯覚である

東京大学の遠藤秀紀が指摘している「典型的な間違い」とは このことである

「生き残るため」といった目的のために自発的に進化しているのではなく あくまで「偶発的に生き残れた」結果を進化と呼んでいるに過ぎない

遺伝的進化というものは突然変異と淘汰圧力による自然現象に過ぎず 進化の果てに絶滅しようが何だろうが誰も保証はしてくれない

現在の生物の多くは長い進化の過程で高い恒常性を獲得してはいるものの 生物やその進化に目的が存在する論理的根拠は何もないのである

そもそも鼻風邪程度の症状しかなかったコロナウイルスが強毒化をしたからこそCOVID-19となったのであって 弱毒化に向かう変異や収斂進化のメカニズムも存在しない

生物やウイルスは「生き残る」ためといった目的に則って進化しているわけではなく あくまで自然現象として変異した結果に過ぎず 生き残る「必要性」のようなものはどこにも存在しないのである

アナウサギに対するミクソーマウイルスの弱毒化は あくまで自然界における強力な淘汰の結果であって ヒト自身が進化しなくなった文明社会の中ではウイルスもまた都合良く進化することはできない

ウイルスが弱毒化する条件とは まず大量発生しているヒトなどの宿主が大量に死滅し 密が解消して感染が収束した後に弱毒株が優位になるのであって ヒトでこれが起こるためには人口の90%以上が死滅しなければ弱毒化への収斂進化には至らない

変異によって弱毒株が生じたとしても 弱毒株以外が宿主ごと大量死滅しなければ弱毒株への収斂は起きないのである

 

現存するウイルスが弱毒性なのは 弱毒進化共生に成功した株だけが残ったという結果であって 全てのウイルスが弱毒進化に成功したという証明はできない

進化に「失敗」した株はほとんど全て跡形もなく消え去っているからである

COVID-19ウイルスが弱毒共生進化に成功する保証は何もない

過去に絶滅した膨大な生物種やウイルス株のように「失敗」する可能性も充分にある

遺伝的進化というものはヒトに都合良くしか働かないようなものではないのである

 

無駄吠えしないイヌへの品種改良は 無駄吠えしない個体同士での交配を管理した状態で生ずるものであり ウイルス感染はこうした管理状態にはない

バンコマイシン耐性菌が生ずるメカニズムと同様に COVID-19ウイルスが多剤耐性を獲得する可能性も存在し 決してヒトにとって都合良く変異が生じてくれる保証はない

自然界においてウイルスは赤潮プランクトンの異常繁殖を抑える「役割」として働くことがある

それならヒトの異常繁殖を抑える「役割」としてウイルスが働けば ヒトは密が解消するまで弱毒化は起こらない

生態系のピラミッドというものは ネズミやイワシが捕食者に喰われるために高い繁殖能力を獲得したわけでもなければ

生態系を維持するために肉食獣が繁殖個体数を抑制しているわけでもない

それぞれの個体種は生態系における「役割」において その繁殖力でなければ生態系が成立しなかったという結果でしかなく 別に目的のために繁殖能力を意図的に変えているわけではない

ネズミやイワシが充分な繁殖能力がなければ食い尽くされ 肉食獣が必要以上の繁殖力を持ってしまえば生態系ごと食い尽くすことになり

結果的に生態系は崩壊するのである

崩壊(失敗)した生態系は残らない

残っているのは崩壊せずにピラミッド構造を形成できた生態系だけである

進化というものが自然現象である以上 失敗しない保証はどこにもないのである

「全ては成功する」というのであれば 何の対策もせずに自然任せにしておけばよろしい

起こったことの全ては偶然であり必然ではあるが 起こったことの全てに目的があるわけではない

「偶発的結果」と「意図的目的」の違いが理解出来ないバカが多すぎてどうにもならない

 

 

Ende;

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転落事故

2021年10月13日 17時17分51秒 | 日記

高層住宅から幼児が転落する事故が時折ある

やっぱりちっちゃい子供は高いところから景色を見たがるものなので

ベランダに子供の頭だけが出せる穴があれば転落事故は減るんじゃないだろうか

どっかの幼稚園ではベランダをガラス張りにすることで 柵に乗っからないようになったという

ベランダ以外でも 窓に追加で小窓が開けられるようになっていて 子供が頭だけ出せるようにしても良いかも

YKKでそういう窓こさえたら良かろうと思う

 

 ◇追記:軍用航空機とかについてるバブルウインドウとかどうなんだろう 掃除しやすいように内側に開くようにしとくと子供が勝手に開けて勝手に転落しそうな気もするので 子供には開けられないように何か工夫が要るかな

 

 

Ende;

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証明写真

2021年10月12日 12時49分04秒 | 日記

証明写真が必要になって 証明写真を作る機械で作ろうと思ったら一枚800円も取られる

普通のLサイズプリントなら20円〜40円でプリントできるのに 証明写真になった途端に20倍以上もするのは納得いかないので

自撮りしてLサイズプリントで出力出来ぬものかと思って実験してみた

 

証明写真のサイズは

縦 36〜40mm

横 24〜30mm

Lサイズプリントのサイズは

89mm×127mm

なので Lサイズプリントで出力した場合には横に4枚 縦に2列タイリングした画像を作れば概ね良さそうである

オイラはAUTODESKのSketchっつう無料アプリでタイリングしたんだけど Sketchって出力がPNG形式なのでセブンイレブンのプリンターが認識してくれないので

https://www.iloveimg.com/ja/convert-to-jpg/png-to-jpg

というサイトでJPG形式に変換

セブンイレブンのネットプリントで出力

アスペクト比4:3の写真を横に4っつ並べて 縦に2列にしたら 横(長辺)方向右側が若干切られてしまった

画像の縦方向に若干の余白を設けておけば丁度良くなるんじゃないかと思う

今回は元の写真の余白が若干大きめだったので40mm✕30mmに切ったら丁度良い感じになった

 

 

余談:セブンイレブンのプリンターで出力したんだけど お釣りを取り忘れて30円誰かに持って行かれてしまった

でも証明写真だけで800円かかるところを他の写真も含めて100円以下で済ませられたので

30円くらい良いかなと思っている

でも釣り銭取り忘れって多いんじゃないのかな

ナナコで支払っときゃ良かった

 

自撮りする場合には顔に影が出ないよう 周囲の壁とか地面が白くてレフ代わりになる広い場所で曇りの日に撮ると良いと思う

ビッグサイトの屋上みたいな場所が自撮りに向いてそうな貴ガス

 

知らんけど

 

そのためだけにビッグサイト行く奴もおらんと思うが

あ でもアイドルとかミスコンのオーディション用の写真だったら撮りに行く人いるんかな

そういう場合は晴れた日に逆光で撮るのがオススメ

その手のティップスはネット上に山ほどあるとは思うが

 

 ◇追記:PNGに対してJPGのファイルサイズが小さい

5倍以上違う

 

 

Ende;

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死去解約

2021年10月11日 22時23分05秒 | 日記

契約期間に縛りがある携帯電話契約の場合

途中解約すると1万円くらい解約料を取られちゃうことになっているんだけど

契約名義者が死去した場合には解約料が取られなかったそうだ

auの場合は

他のキャリアのことは知らない

最近は縛りなしの契約が増えたので

どうでも良い話かも知れない

 

何でも良いけど暑かったわ

明日からは急に気温が下がるそうだ

 

Ende;

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非効率な制度

2021年10月11日 16時21分23秒 | 意識論関連

川田亜子アナウンサーのように生活に困窮しておらず しかも世間的には人気女子アナとして認知されていても 当人が主観的に「不幸だ」と思ってしまえば自殺してしまうこともある

絶望感という感覚は あくまで主観であって 自殺することの客観的合理性はない

死ぬことを否定はしないが 肯定もできない

なぜなら「生存」とは生物の「結果」であって「目的」ではないからだ

誰も自らの意思選択でこの社会の中に生まれてきたわけではない以上 「死ぬな」と上から目線で命令する権限は誰にもない

それは他人に「死ね」と命令することと同義である

あくまで個人として 自分が個人的に生きていること 生き続けることに意味を見いだせている者にとって 他人が無為に自死を選択することが許容できないという 主観的な「お願い」以上のことはできないのである

 

幸福感というものは ぶっちゃけ脳内麻薬である

だからエタノールとかニコチンとか違法薬物でも「目先の幸福感」を得ることはできる

だが 泥酔して迷惑をかけている他人が肯定できない以上 自分もまた泥酔して他人に迷惑をかけてしまうことで 自己肯定感を喪失し 「どうせ俺なんかダメ人間だ」という決め付けをすることで 迷惑な行動を繰り返すようになるのである

他人から「迷惑な奴だ」というレッテルを貼られると その「他人からの見た目や印象」を短絡的に「自分の意識(自意識)」だと勘違いし 「誰も自分のことを認めてはくれず 迷惑者としてしか扱ってくれない」ことを理由に迷惑行為を続ける自分を正当化することで 迷惑行為から抜け出せなくなるのである

他人がどう思おうが 認めてくれなかろうが それは他人から見た印象であって 自己そのものの意識の本質ではない

他人から「クソ人間だ」と思われていようが 過去の過ちを教訓として改め 自律的に社会的責任判断選択をすることが人間性の本質である

自分で選択可能であるからこそ自由なのであって 自由意志でもある

自分の意思と 他人からの評価は関係がない

他人からの評価という「環境」に依存しているからこそ 自律的な責任判断選択を放棄するようになるのである

迷惑系ユーチューバーの「へずまりゅう」のように 「迷惑な奴は ザラにいる」ことを根拠に自分の迷惑行為が正当化できるものだと著しく勘違いしているバカが多すぎる

迷惑な奴を 迷惑だと認識しているのであれば 「自分は迷惑行為をしない」という行動選択をすることこそが 社会的責任判断選択というものである

迷惑な者というのは少なからず社会に存在する

原子力発電所の津波に対する脆弱性を放置することもそうだろう

大企業で上司や取締役員の言いなりに粉飾決算をする社員もそうだろう

社会の安全性や持続可能性や平等公平性に配慮せずに 利己的利益や目先の満足ばかりを優先している「隠れ迷惑者」は膨大に存在していると言える

どんなに多くの迷惑者を枚挙陳列しても 迷惑者であることが「普通」であることの証明にも ましてや「正しいこと」の証明にもならない

 

多くのヒトは イマヌエル:カントの「純粋理性批判」が論理客観的根拠に基づいた哲学だと誰も疑わずに信じ込んでいる

「絶対に知覚することのできない叡智界」の存在を 一体どうやって実証するつもりであろうか

そもそも「どうして知覚できない」と言えるのであろうか その論証もカントはしておらず 頭ごなしに決めつけているだけなのである

根拠のないデマや嘘を 哲学だと称して学生に借金させてまで教え込んでいるというのは詐欺ペテン以外の何ものでもない

 

ヒトという種の生物は 論理客観的な根拠や論証がなくても 主観的に気分が良くなりさえすれば その満足感によって論理客観的検証性を簡単に喪失する

ヒトとはそういう欠陥品なのである

人間として欠陥品なのである

遠藤秀紀が述べている「ヒトは欠陥品」という論説とは異なり 遠藤の言っている欠陥とは あくまで「生物として」欠陥品であると述べているに過ぎないので 混同すべきではない

だが 遺伝的進化というものには目的が存在していないという点において 遺伝的進化によって人間性が進歩することもないのである

リチャード:ドーキンスの「利己的な遺伝子」にあるように 特定環境下においてヒトが利他的行動を採る習性が存在しているとしても それだけで「先天的に人間性が組み込まれていることの科学的論証」にはならないのである

先天的習性というものは 常に環境依存性が伴うものであって 決して「あらゆる環境下でヒトが利他的行動しか採らないこと」を証明しているわけではない

環境や状況によっては 他人を押しのけてでも自分だけが助かろうとする行動も 実社会では数多見られるのである

こんなものは実験で立証するまでもない事実である

状況や環境によってはミャンマー政府軍のように自国民に暴力を振るうことも存在しており こうした現象を全て無視して特定環境下だけに見られる利他的行動だけを抽出してきて「ヒトには先天的に人間性が存在する」と言い張るのは 論理の飛躍も甚だしいご都合主義的解釈であり 到底科学的論証にはならない

中世の戦国戦乱という歴史を歴史家達のご都合主義的解釈によって暴君を「英雄」と見なす酷い政権寄りのプロパガンダを放置することも 到底客観的事実認識とは言えないのである

ナチスやポルポト 日本軍による蛮行など 近代史になった途端に野蛮行為として扱うのは 理解に一貫性がなく 極めて無責任な判断でもある

「一人殺せば殺人犯だが 1万人殺せば英雄」という屁理屈も 歴史家の身勝手な解釈に由来するものであって 殺した人数で評価が変わるなどという非合理な話は「学問」としては著しい欠陥である

 

「どうせ自分は欠陥品だ」と称して絶望し 諦めたり決め付けたりはぐらかしたり他人や社会環境の所為にしたり 落ち込んで意欲をなくしたりするのは簡単である

それは とても簡単なことであり ヒトの大半は簡単なことに簡単に陥るのである

ヒトが欠陥品であることは もはや変えようのない事実であり 「欠陥のないヒトはいない」以上 ある意味「平等」でもある

「へずまりゅう」や田代まさしのように欠陥が著しく発揮される場合もあるが 南アフリカのスラムのギャングや 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺事件の植松聖に比べれば まだマシではある

比べる対象はいくらでもあるが だからといって迷惑行為が正当化できるわけではないものの 自分で物事を考え 自律的に社会的責任判断選択を「しない」 或いは「できない」者の精神構造や論理構造を解明し 同じような間違いに陥らないように再発防止対策として確立することは重要である

同じ「ヒト」である以上 誰も同じ間違いを冒さないとは言い切れないのである

誰も迷惑者や犯罪者になりたくて生まれてきたわけではないはずである それなら 迷惑者や犯罪者になってしまう者のプロセス構造を論理的に理解し 同じような過ちに陥らないように工夫することは必要である

「失敗学」的なアプローチを行うためには 刑法罰はその障害にしかならない

刑務所の中の「犯罪者集団の中の社会性」を身につけてしまえば 犯罪者から抜け出すことが益々できなくなってしまうのである

それは 公の資金を投入して犯罪を助長しているようなものでもある

 

 

Ende;

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