重症者数67人 前日比−1人
死亡者7人
え? は? なんこれツジツマ合わんのでは?
ああ 7人死亡して重症者が6人増えたのね
まだ第5波の影響が続いているのか
◇追記:イヤチガ 回復者が計算に入ってないや ってこた新規の重症者はもっと増えているってことかな あ でも 重症者が6人増えているのは間違いないか
Ende;
重症者数67人 前日比−1人
死亡者7人
え? は? なんこれツジツマ合わんのでは?
ああ 7人死亡して重症者が6人増えたのね
まだ第5波の影響が続いているのか
◇追記:イヤチガ 回復者が計算に入ってないや ってこた新規の重症者はもっと増えているってことかな あ でも 重症者が6人増えているのは間違いないか
Ende;
環七柿の木坂などで起きた地震に伴う都内23箇所の漏水だが
水道管の老朽化による破損は一箇所もなく
空気弁の浮き球が地震の揺れで動いてズレて戻らなくなったのが原因だそうだ
空気弁は構造上耐震性がないらしい
何だかマヌケな構造だな
自動で復帰できる構造には出来ないのかね
誤動作する度に現場の職員が首まで水に漬かってバルブ締めなきゃいけないのはおかしいだろ
まだ真冬じゃないからマシだけど 今だって充分寒いぜ 夜中にずぶ濡れは
Ende;
遺伝的な進化というものには目的がありません
合理性のある目的に則って自らの遺伝子を都合良く変えられるメカニズムは存在しないからです
遺伝的進化というものは 「変異」と「淘汰圧力による収斂」のセットで生じる自然現象であって この2つには何の意図も目的も戦略も存在しません
遠藤秀紀が言っている「典型的な間違い」とは 「遺伝的な進化というものが合理的目的に則って都合良く進化するものだ」と大半の人が誤解していることに対して述べているわけです
ですが 実際に従来生物学では「○○のために進化した」とか「生存戦略」だとか「進化は人間よりも賢い」などといった教え方をしていたわけで そもそも生物学者の大半が誤解したまま教えていたためであり 遠藤の主張は説明不足で無責任なものでもある
もう少し具体的な例を挙げておきましょう
昆虫によく見られる擬態は 鳥類や哺乳類などにおいても生じるものであって 雷鳥やユキウサギのように季節に応じて目立たない姿になる性質です
目立たなければ天敵から見つかり難く 逆に捕食の際にも有利に働く形質です
一般的解釈としては 「見つかりたくないから 見つかり難い姿を選んだ」と思われていますが これが遠藤秀紀の言う「典型的間違い」なわけです
遺伝的進化のメカニズムでは 変異というものは多様性を拡大するだけであって 変異はランダムに「見つかりやすい個体」や「見つかり難い個体」への多様な変異が起きるのであって 「見つかりやすい個体」から天敵に捕食されてしまうため 結果的に「見つかり難い個体」だけが生き残ることになったことで生じたのが擬態なのです
ですから 変異によって偶然「見つかり難い」変異が起きた個体以外は全て天敵に喰われて死滅しているのであって 膨大な犠牲の上に成り立つのが擬態という遺伝的進化なのです
ヒトは ここ数万年ほとんど進化が見られないと言われています これはヒトという種の生物は集団組織的に協調行動を採ることによって環境から受ける淘汰圧力の影響が働かなくなったためです
アフリカのサバンナのような環境では 草食獣の多くが逃げ足が速くなる「進化」が起き 逃げ足の速い草食獣を捕食できる肉食獣への収斂による「共進化」が起きていますが
草食獣の逃げ足が速く進化するためには 天敵に襲われた時にただひたすら逃げ回るだけだからこそ逃げ足が速く進化したのであって ヒトのように集団で統率協調的に外敵に対抗できれば逃げ足が速く進化しなくても死滅せずに生き残れたため ヒトは遺伝的には進化することが生存には影響しないため 進化しなくなったと言えるのです
集団統率的に協調行動を採ることを 生物学上では「社会性」と呼びますが これはあくまで動物的な行動習性であって 結果的に生存にとっての必然性は存在しますが 合理的目的や人間性が伴うわけではありません
「死ななければ良い」というのであれば 奴隷でも「死ななければ 生きている」のであって 結果的生存だけを挙げても人間性に適う訳でもありませんし
戦争で殺し合いをしていても 絶滅しなければ「種の保存」にはなるからです
遺伝的進化というものは あくまで「生存」や「種の保存」に適した結果であって 目的が存在するわけではありませんから 都合良く進化できるわけではないのです
ロシアで行われたキツネの人工繁殖では 数世代で多様な変異が見られていますが 自然界ではキツネに多様性が見られません
変異自体は自然界でも人工繁殖でも同様に生じているはずですが 多様性が見られないのはなぜでしょう?
これは キツネの群れの中では特定の形質や習性を持った個体以外が淘汰されているためと考えられます
「考えられます」とは言っていますが それ以外のメカニズムが存在する証拠も論拠も今のところ見つかっていないため 「それ以外には考えようがない」ので おそらく間違いないと言えます
集団統率的な協調行動にとって必要な形質や習性を持たない個体は キツネの群れの中から排除されることで淘汰され 結果的に変異が生じていても多様性は拡大しないのです
見た目が派手な個体への変異が起きて群れの中に目立つ個体が混じっていると 狩りの際に目立ってしまって狩りの成功率が下がってしまいますし そもそも統率協調性の低い個体であれば狩りには向いていません
したがって キツネの群れでは多様性拡大は生存や種の保存にとって不利に働くため 多様性を許容しない性質への収斂進化が働くことになり これが自然界におけるキツネの多様性を妨げていることで 人工繁殖のように多様性が生じないわけです
「多様性を妨げる」習性とは 言うなれば「民族浄化バイアス」でもあります
群れの生存や種の保存にとって有害な個体を排除することが 種の存続にとって有利であるため 進化的に差別排除をしたがる個体種への収斂進化が起きたためと言えるのです
それなら 最初から「変異が起きにくい個体種への収斂進化が起きないのか?」と言えば そう都合良く進化というものは起きないのです
既に変異しやすい性質を持っている以上 これを遺伝的に変異しにくい個体への収斂進化が起きる力学が働かない以上 キツネは民族浄化によって多様性を妨げる以外に何も選択することはできないのです
こうした民族浄化バイアスというものは 群れを形成して統率協調的行動を採る いわゆる生物学上の「社会性」を持った種全般に普遍的に見られる傾向でもあります
ヒトも例外ではありません
ですからヒトはイジメや差別といった行動が一向になくならないのです
しかし ヒトには理性がありますから 個人的に嫌いであっても存在の多様性を許容することが必要で合理性があると「理解」することによって 先天的本能としての民族浄化バイアスが促す行動を自ら抑制することも可能なのです
先天的本能習性というものは 自ら選択したものではありませんから 先天的本能習性という欲望に無為に流されていては到底「自由」意思でもなければ 意識でも 合理的目的でもないのは当たり前の話です
先天的本能習性に抗うということは 気分的に良いものであるとは限りません
むしろ 先天的本能習性によって促される欲望や感情のままに行動しておいた方が 気分的には良いのは当たり前の話であって 祖先が先天的な遺伝的習性任せに行動した結果として生き延びた以上 これは自分ではどうにも選択不可能なわけです
主観的 個人的に嫌いかどうかには 合理的根拠がありません
個人の主観的好き嫌いというのは自分では選択していないものであって 「欲望自体を欲することはできない」のです
社会安全性や持続可能性の観点からは 多様性を許容することが合理的で必要なものであることを理解し 個人的な好き嫌いに依存せずに社会的行動を「選択」することが 「人間」にとっては必要なのです
ヒトという種の生物は 先天的に統率的な協調行動を採る習性があるため これは狩猟採集生活をしていた祖先の生息環境ににおいては生存や種の保存にとっては有利に働いたとは言えますが それはサルやキツネの生存や種の保存という「結果」と基本的に一緒です
遺伝的進化によって組み込まれた形質や習性といったものは 全て「死滅しなかった」という結果以上の意味はなく そこに人間性を伴う合理性や目的が存在する根拠は何もないのです
ヒトの多くは「死にたくない」とか「いつまでも健康で若々しくありたい」と思っていますが どんなに何世代も「死にたくない」と願おうが祈ろうが望もうが呪おうが 死なない個体種への遺伝的進化は起きません
個体の望むようには遺伝的進化は起きないのです
ヒトは塩分や糖分や脂質を過剰に摂取したがる先天的習性があるため 本能欲望のままに飲食していると生活習慣病に陥る傾向があります
これは 塩分や糖分や脂質の乏しいかつての祖先の生息環境の影響を受け継いだためであって 本能欲望のままに行動しておいた方が「目先の快楽を感じる」ことはできても 「望んだような結果が得られる」わけではありません
これは 先天的本能習性には合理的目的が存在しないことの一つの証明です
民族浄化バイアスに関しても あくまで先天的習性であって 合理的目的に則っている保証は何もありません
イジメや差別排除の対象となる人に一貫した傾向性はなく 唯一あるとすれば 「その集団の中で目立つ」とか「少数派である」といった程度の傾向性しかなく 何ら論理的根拠を伴う合理性は存在しません
だからこそ天動説の時代には「地動説は火炙り」という結論になってしまうのです
「内部告発者は裏切り者」にされてしまうのも同様です
「特攻隊は英霊」として扱われ 「政治犯は裏切り者」としか扱われないのです
狩猟採集生活をしていた祖先のかつての生息環境においては民族浄化バイアスは「生存」や「種の保存」には適していた結果ではあっても 「生きていさえすれば全て正しい」というのであれば より暴力的で権力慾の強い個体の方が有利である以上 より暴力的で権力慾の強い個体種への収斂進化が生じていてもおかしくはありません
「生存」や「種の保存」に適していることが 合理的根拠を伴った人間性や倫理に適うわけではないのです
女性がDV男との間に子供を作ってしまいがちなのも ヒトの配偶者選択バイアスに著しい欠陥が存在しているためです
暴力的な男の近くにいた方が 「吊り橋効果」的に心拍数や血圧が上昇することが恋愛感情(繁殖行動バイアス)を促してしまうことによって より暴力的な男との間に子供を作ってしまいがちな傾向が存在するからです
暴力性は人間社会において合理性が全くありませんが ヒトの先天的本能習性というものは 決して合理的目的に則って都合良く進化することはできないため 狩猟採集生活から離れて文明社会を築いて何千年経ってもヒトは殺し合いをやめることがなかなかできないのです
自然界においては喰うか喰われるかの弱肉強食でしか環境調和が成立しません
生態系のピラミッドであっても あくまで生態系全体が環境調和できかった生態系が淘汰された結果であって 合理的目的が存在するわけではありません
自然界においては喰い合い殺し合いによって生態系を維持調和させているとしても これを人間社会に適応しなければならない必要性は何もないのです
生態系のピラミッドであっても 所詮は収斂進化という「結果」以上の意味はなく ただの自然現象であって 自然現象の全てに意味や合理性が伴うわけではなく あくまで自然現象という必然的結果の中の一部分には合理的に目的利用可能なものも存在するに過ぎません
一部分が目的利用可能だからといって 自然現象の全てに合理的目的が存在するわけではないのです
ヒトの先天的な社会形成習性というものは 狩猟採集生活においては統率協調的行動にも生存や種の保存にとっての必然性があったとは言えますが それは決して人間として合理的であるとは言えないのです
先天的な統率協調性というものは 特定の「権威」者への盲目的服従性によって発揮されるものであり これは同時に個体の自律的判断選択を抑制する働きも持っています
唯々諾々と「権威」とみなした対象の意見に従うことで ヒトは統率的協調性を発揮し イジメや差別であっても同じ観念を共有することで気分的に安心満足して差別排除が行えるようになるわけです
同じ観念を共有し 共感によって満足感を得て 同じ排除差別という「目的」に沿った行動をすることで仲間意識を醸成することでさらなる安心満足を得られるからこそ ヒトはイジメや差別排除を益々やめることができないのです
ヒトに限らず動物というのは安心感や満足感という「欲望」を限りなく追求する性質があります
それは 欲望に貪欲な個体程生存や種の保存にとっては有利に働いたため 収斂進化が働いた結果です
自然界における遺伝的進化においては必然的に必要だったとは言えますが 人間社会においては合理性がありません
自然界における弱肉強食による生態系のピラミッドにも 統率協調性による権威盲目性も あくまで「必然的結果」に過ぎず 人間社会の持続可能性や安全性追求という「目的」にとっての合理性があるわけではありません
社会持続可能性や安全性の観点からは むしろ権威盲目性による封建的順位序列は害を為すものであって ましてや「強者のみが生き残る」などという「自然界の必然的結果」を人間社会に持ち込む必要性など一切ないのです
ないにも関わらず 他人よりも優位に立てなければ死んでしまうという強迫観念的恐怖(遺伝子レベルの貧乏性)から ヒトは他人を蹴落としたり社会持続可能性よりも世間的成功などの利己的利益追求の方法論ばかりを優先しがちな性質があるのです
「こうすれば お育ちが良いように見てもらえる」だとか
「勉強すれば世間的に成功して他人よりも身分序列で優位に立てる」といった話の方が大衆には人気が得られやすいのはそのためです
こうした「他人よりも優位に立場に立ちたい」という利己的欲求に基づいているからこそ マナー産業がでっち上げたデマであっても簡単に鵜呑みにしてしまう原因でもあります
合理性のない理不尽なマナーや規範であろうと 現状世間に迎合しておかないと自分の利益に適さないという強迫観念的恐怖(先天的本能)が動機であるため 何の批判精神も論理客観性も働かずに鵜呑みにして目先の安心満足を優先してしまいがちなのです
利己的利益追求よりも 社会安全性や持続可能性を優先していれば 合理性のない理不尽なマナーや根拠のない規範や常識にも無意識に流されることなく異義を唱えることができます
本当の目的が何なのかを理解識別できていれば 論理客観的検証性(理性)がちゃんと働き 常に「むむ? それって本当のところどうなのか?」と自分の頭で考え判断することができるようになるのです
しかし 利己的生存という本能的欲望が優先していれば 世間に迎合することで頭がいっぱいになり 合理的根拠も何もない理不尽なマナーだの規範だの常識だのを簡単に鵜呑みにするようになってしまうのです
冒頭から述べているように 遺伝的進化による先天的本能欲望には合理的目的など存在していないからこそ 個人的主観だけで判断していると嘘でもデマでも見抜けなくなるのです
ヒトという種の生物が 特異に脳容積が大きいにも関わらずデマや嘘を見抜けないバカなのは 自発的に物事を考え判断するようには先天的にできていないからなのです
ヒトは 別に「人間になろう」としてヒトになったわけではなく あくまでヒトに進化したからこそ結果的に「人間としてありたい」とも願うようになったのであって 何が本当の人間性や倫理なのかを理解認識していなければ 「本当の目的」をも忘れて嘘やデマを信じ込んで意味のない因習やマナーに執着するようになるのです
へずまりゅうのように「迷惑な奴なんて ザラにいる」からといって 自分の迷惑行為までをも正当化できるわけではありません
迷惑な人というのは目立つため 報道で扱われやすい傾向もあるため あたかも迷惑者の方が多いような錯覚に陥りがちな傾向がありますが それこそメディアリテラシーとして「自分の主観的感覚を鵜呑みにしない」ことが客観的判断能力として重要となるのです
「生物や その遺伝的進化には目的がない」という話は ネットで調べても文献をいくら紐解いても決して多数意見でも権威の見解としてもほとんど出てきません
その代わりに「生きていることそのものが目的なのだろう」だとか「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという更科功の根拠のないはぐらかしでお茶を濁している程度しか周知されていません
論理的には根拠のない「だろう」だとか 主観的感想に過ぎない「立派」などという話は到底科学的論証には一切なりません
科学的真理というものは多数決で決定するようなものではありません
科学や哲学とは あくまで論理客観的に真実かどうかを論理的根拠に基づいて論証されるべきものであって 現在は「少数異端だから間違いだ」という判断をして良い根拠にはなりません
「ウイルスは必ず弱毒化するから 期待して良い」などというデマが出てくるのも 従来の進化生物学上の誤謬に基づくものであり 従来の生物学では「常識」とされていた話だからこそ多数の医療関係者や日本医科大学客員教授までもが言い出してしまったわけです
弱毒化が起きないとは言えませんが 同時に強毒化が起きない保証もないのです そもそも鼻風邪程度の症状しかなかったコロナウイルスが変異したからこそSRASやMARS COVID-19のパンデミックが生じているのであって 地球環境を食い尽くさんばかりに増殖したヒトを培地として 大量発生を抑制する働きとして強毒変異を起こしたり多剤耐性を獲得してしまう可能性もないとは言い切れないのです
東大医学部の学生であっても 医師免許を持っていても 学力偏差値がどんなに高くても 自分の頭で客観的に論理検証できなければデマでも嘘でも平気で言い出すものなのです
医師であれば 何も自らの望んで信用を失うようなデマを言うわけではないでしょう
「騙されている」という点においては「被害者」の範疇に属するとも言えるわけです
しかし 被害者でありさえすれば責任が一切ないわけではありません
自分の頭で考えれば嘘やデマだとわかる話を鵜呑みにしていることもまた 社会的無責任にもなるのです
私は自分の頭で考え判断できないバカが大嫌いです
大嫌いですが これは私の個人的主観であって 社会的にはどうでも良い話です
重要なのは バカが治らないと嘘やデマによって社会安全性や持続可能性や公平性に重大な害を及ぼすことがありますから これは是正する必要性があるわけです
個人的には「既にわかっていること」であるため 「いちいち説明せんでもわかるやろ!」と思ってしまうのですが
文章に書き起こすと意外と長文になるので もしかしすると難しいのかもしれません
学校の教師が生徒に「何でこんな簡単なことがわからないんだ!」と怒っているような構図だとすれば 教師の業績目的のパワハラにしかなりませんが 別に職務で書いているわけでもないので同列に扱われるいわれはありません
バカしかいなくて誰も理解できず それが原因で人類が絶滅しても そんなことまで責任持てませんよ 私しゃ神様でも仏様でもありませんからね
Ende;
「NHKを倒す」などと言っているバカがいるが
暴力的な独裁政権を打倒するには暴力的な革命もやむを得ない時代もあったが
現代においてNHKのような大規模組織には欠陥や問題点が見つかった場合には 丹念に是正を行うことの方が重要である
根本的に間違っていて有害性しかない組織なら暴力破壊による革命も必要になるかも知れないが NHKのように必要性や有用性もある組織の場合には「倒す」ことよりも 間違っている部分を指摘して是正を促してゆくことの方が重要である
ヒトは 組織集団に欠陥があると 頭ごなしに「潰しちまえ」と言いがちだが(私も含めて) 社会的有用性も存在するのであれば有害性を取り除いて組織を浄化する必要がある
パンが不味いからといってパン屋を破壊すれば パンを作る人がいなくなって困るのは破壊した衆愚の方である
パンが不味いのであれば 「旨いパンを作れ」と是正を促すことの方が合理的であり 破壊で何でも改善したり解決するわけではないのだが ヒトという種の生物はどうしても報復的に「倒す」ことばかりに意識を奪われ 非合理な破壊革命ばかりが人気を集める性質がある
懲罰感情というものがあるからこそ ヒトは他人に危害を加えるのであって 現代人のストレスの大半は他人から加えられる自由への抑圧が原因である
他人に何かを強要すれば あたかも自分の優位性や自由度が増したかのような感覚にはなれるが 実際には自分の欲望自体からは全く自由にはなれていないのである
イヌやサルのような封建的序列を受け入れてしまうのが 生物的な本能としての先天的な社会形成習性であり 盲目的に権威に服従しておいた方が安心満足だからこそ 封建的序列が形成されてしまい 平等性が損なわれるのである
先天的習性としての「社会性(社会形成習性)」を持った生物というものは 序列に従わない個体がいると急に反射的に腹を立て 「下」とみなした対象への暴力的抑圧を強要するものである
いわゆる「掟」というものであり これが「規範意識」の源でもある
自分が「上(権威)」とみなした相手に逆らわず服従迎合していることで安心していることを事後正当化する形で 「下」と見なした相手には服従をさせないと気分的につじつまが合わなくなるため 認知的不協和を解消する形で他人を抑圧するようになるのである
「規範意識」とは言うものの これは論理的には「意識」ではなく 単なる情動バイアスに過ぎず 何の合理性も根拠もないのである
他人を特定の規範に遵守服従させておけば気分的に安心満足感が得られるため 気分的安心満足を合理的根拠の伴う安全性か何かと錯覚しているだけなのである
ナチス政権下の規範も 東京電力社内での規範も 決して合理性が伴うわけではない
規範意識というものは 個人の素朴な疑問に基づく検証性を蔑ろにし 物事を「考え」なく誘導する洗脳の要因でもある
兵隊が何も考えずに他人を殺害できるのは 兵隊が自律的に物事を判断しないよう 「考え」ないように誘導し バカになるよう訓練(学習)してあるからである
こうした「規範意識」というものは 自分では何も考えない幼稚な衆愚にとっては安心満足感を与えてしまい 多数や権威に服従さえしておけば合理的に安全性が担保されていると勘違い錯覚を醸成するのである
自分からは論理客観的に物事を検証することが未熟な幼児に対して一定の規範を守らせることも必要ではあるが これが社会全体に及ぶと権威服従性や多数派迎合性ばかりが蔓延して 誰も自律的な社会的責任判断をしなくなるようになり 規範に欠陥があったとしても誰も異義を唱えず暴走破綻に歯止めがかからなくなる
オウム真理教もナチスもポルポトも太平洋戦争中の日本も 全部同じ原因によって暴走破綻に陥ったのである
香港警察やミャンマー軍事政権の暴走も一緒である
「まだ破綻にまでは至っていない」だけの話に過ぎない
ヒトという種の生物は サルから進化した生物であるため ヒトにまで進化する以前からの祖先の生息環境に依存した習性や サルの動物的な「社会性」までをも先天的な習性として組み込まれているため 順位序列や盲目的規範意識といった服従統率的協調行動に都合の良い行動バイアスに無意識に流されがちなのである
ヒトは人間になろうとしてヒトに進化したのではない
ヒトという種の生物でありさえすれば人間性が発揮されるわけでもないのである
人間性とは何か その真実を見極め 自ら主体的に人間性を発揮しようという合理的目的意識を持って 初めて人間性を発揮することも可能となるのである
つまり 物事を主体的に考え 何が真実なのかを見極められさえすれば 誰でも人間性を発揮することは可能だとも言えるのである
そのために必要なのは 既存の自己の先天的本能習性や 刷り込み学習された既存の常識や規範といったものに流されない主体的で論理客観的根拠を伴った「真実」を見極める能力である
それは決して学力成績や偏差値とは無関係であり だからこそ東大医学部の学生であっても毒ガステロで「人類の救済」だと勘違いするようにもなるのである
私は決して頭が良いわけではない
あくまで自分の頭でちゃんと深く考え 何が本当なのかを見極めただけのことであって むしろ どうして私以外は誰も自分の頭で物事を客観的に論理検証しないバカなのか その方が不思議で仕方ないのである
バカの感覚はわからない
わかりたいとも思わないし わかったところで共感することに意味はない
バカ同士で共感してもバカげた観念を信じ込むようにしかならないからだ
知能を測る際の基準として「質問されてから答えるまでの時間が短い方が頭が良い」と一般的には思われているが 同じ「ヒト」である以上は脳のハードウェア的能力にさしたる違いなどあるわけもなく 回答までの時間が短いというのは実際には「既に知っていることをただ言っているだけ」であって 誰も考えたことがない物事を深く考えていれば回答まで何年も要してもおかしくはないのである
「生物の目的は生存や種の保存」と教え込まれて鵜呑みにしているだけのバカなら それが論理的には間違っていることには意識(思考)が全く働かない
更科功が「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという論理的には何の根拠もない個人の主観的感想を あたかも科学的論証であるかのように大半の衆愚は鵜呑みにして疑わない
これをバカと言わずに何と形容したらよかろう
Ende;
アフガニスタンのイスラム寺院で起きた自爆テロは
子供が持ち込んだ靴磨きのカバンが爆発したという
ISILは子供を利用して自爆攻撃をしたらしい
コイツらは「有神論者」に分類して良いのかね
大半のムスリムは「アイツらはただのキチガイだ」と思っているんじゃないだろうか
死後の世界での神からの祝福や永遠の命欲しさに現世の安全性に責任を負わないようになるのが宗教の危険性で
念仏が流行すると自殺者が増えたこともあったという
ヒトという種の生物は どうしても暴力的懲罰こそが絶対的な「正義」だと錯覚する習性があって
「本当の目的」を簡単に忘れて先天的本能欲望としての懲罰感情だけを満たすことで頭がいっぱいになってしまう
梅沢富美男が言う「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らすことで衆愚から人気を得られるのも 懲罰さえ実行しておけば全てが解決したかのような感覚(錯覚)だけが意識の全てだと勘違いしているからである
何度も言うが 感情(情動)というものは先天的な本能習性によるものであって 「欲望(情動)自体を欲することはできない」のであって 欲望(情動)が選択不可能である以上 欲望には目的も合理性も何もないのである
欲望や感情や情動というものは あくまで遺伝的進化によって結果的に組み込まれた本能習性であって 祖先の生息環境の影響を色濃く反映した「結果」的な行動バイアスであり シーケンシャルで無意識なものに過ぎず 合理的目的など存在していないのである
先天的本能や形質というものは 「生存」にとって合理的なものが存在するとしても そもそも生物やその遺伝的進化というものには目的も合理性も戦略も存在しておらず ただの「生存」という結果に対する必然的なものに過ぎない
イジメというものも 「皆で仲良く誰かを暴力的に差別排除すること」に「満足感がある」からであって
イジメで「満足」できるというのは先天的な差別排除(民族浄化)バイアスが存在するから「楽しい」と感じられるのである
論理客観的に見れば 暴力的懲罰は何の「解決」にもなっておらず 原因究明にも再発防止にも一切なっておらず むしろそれら合理性のある対策への障害にしかなっていないのである
「へずまりゅう」だの凶悪殺人犯といった「社会的責任を全く負わないバカ」を目の当たりにすると 誰であろうと「コイツ死ねよ」と主観的に「思う」ものである
だが 主観的に「思った」からといって合理性の立証にはならない
たとえ多数であったとしてもである
「科学は多数決ではない」ということは そもそも「真理は多数決で決定されるものではない」ということでもある
哲学においてもこれは同じであって 多数人気がどんなにあっても哲学的真理の論証にはならないのである
ヒトとい種の生物の脳には 認知的な錯覚というものが存在しており 錯覚というものは主観的感覚によるものであって 主観的感覚が促す錯覚を 錯覚として客観的に理解することで 錯覚に惑わされずに合理的判断をすることができるようになるのである
これ いちいち言わないとわからんか? 説明しててアホらしくなってくるわ
まあ いいや
ヒトという種の生物は この錯覚という主観こそが真実だと錯覚することが多いため イマヌエル:カントの「純粋理性批判」のようなオカルトファンタジーであっても論理的根拠に基づいた真理を論証した「哲学」だと 平気で信じて疑わなくなるのである
ヒトは 「答え」を求めるのだが
その「答え」というものには多くの衆愚は論理客観性のある合理的根拠や証拠は求めていない
「答え」は欲するが その「答え」が「本当に正しいのかどうか」はどうでも良いのである
では 衆愚が求めているのは何かといえば 主観的満足や安心だけであって 満足安心さえできれば「答え」が絶対になってしまうのである
本当に求めている「答え」には 論理客観性に基づいた合理的「真理」でなければ意味がないのだが
衆愚というのは物事を深く考え 「本当に求めている目的」が何なのかは「考え」ようとはしない
「考え」ようとはしないからこそ「衆愚(バカ)」なのである
進化生物学上の誤謬が明らかにされ 生物はその遺伝的進化には目的がないことが証明された以上 ヒトの先天的情動にも合理性も目的もないことは明らかである
情動には目的がない以上 懲罰報復感情に基づいた司法刑罰にも合理性は存在しないのである
自殺というものが社会安全性や持続可能性にとって害を為すことは明らかである
だが だからといって生き続けていたい者の社会持続可能性のために死にたいと思っている者に無理やり生存を強要する権利もないのである
それは「生き続けていたい者」の身勝手なエゴに他ならない
死にたいと思うその最大の原因は 他人から生きることを強要される不自由そのものである
自由を奪われただ「生きていろ」と強制されても 生殺しにしかならない
誰も生存原理主義者の奴隷になるつもりはない
Ende;
生命尊重派と称して生きることだけを優先するのはおかしな話である
「自殺は罪だ」と称して 「自殺を許さない」と言ったところで この世の自殺志願者の苦しみを解消できるわけでもなければ むしろ生存を強要されることで「最後の逃げ道」すら奪う傲慢な態度である
他人の生殺与奪に口を挟むことはできない
いかなる者であっても他人に生存を強要して良い権利はない
その場限りに生き延びさせたところで 誰も永遠に生きられる保証ができるわけでもない
特に死にたいと思っていない者にとっての「他人に死なないで欲しい」という願望(主観)であって 自殺者が出てしまうことが主観的に悲しいから何とかくい止めたいのであって 罪だの罰だの「許さない」だの「卑怯」だのと称して自殺志願者を非難するべきものではない
自殺を選ばざるを得ないような社会構造という「原因」も改善しないことには 自殺者を更に苦しめることになりかねない
社会制度的なセーフティーネットが充分に周知されていないことや 生活保護を受給することが「悪いこと」であるとか 「弱い人間」であるかのような社会的観念も大きな要因である
貧富格差というものは あくまで社会構造の欠陥から生まれるものであって 年収1億の者と120万以下の者との間にその数値程の能力の差や存在の価値が存在するわけもなく 現状の社会制度そのものに根源的欠陥が存在していることは明らかである
生活に困窮しているとしても 別に「人間として劣っている」わけではないし 「社会的に存在価値がない」わけでもない
逆に 年収が何億あっても「人間として優秀」であることの論証にもならないし 「社会的存在価値が高い」論証にもならない
慶応出身の「塾員」が営業成績が高いからといっても 東大出身者をイジメているようなら むしろ「人としては幼稚」な程であり 社会的には迷惑者でしかない
たとえ生活に困窮していなくても TBSの川田亜子アナウンサーのような「人気女子アナ」が自殺してしまうこともある
それは決して珍しいものではない
自分の境遇が不幸だと「感じる」のは主観であって 他人との比較をしても意味がないのである
脳神経接続が存在しない以上 「自分の方が不幸だ」と証明することも 「自分の方が幸福だ」と証明することも不可能である
幸福や不幸というものは あくまで主観であって 他人との比較には意味がない
他人と比較可能なのは物質的な豊かさだけであって 精神的な豊かさ(幸福)というものは脳内麻薬の自給自足でしか補えないものなのである
数百億もの資産があっても かつての西武グループの幹部のようにインサイダー取引を部下に指示することもある
何百億も資産があっても 他人との比較による物質的豊かさというものは本質的(精神的)には豊かではないから どう考えても非合理な貧乏性を発揮するようになるのである
個人における本当の豊かさというものが見極められないから虚構の外見的豊かさばかりに眼を奪われ 意味のない渇望によって暴走破綻に陥るのである
何が本当の「豊かさ」や「幸福」なのか それを見極めるのは理性である
論理客観的に見て どんなに物質的に豊かでも幸福にはなれないことを知り 逆に物質的には貧乏でも楽しく生きられることもあることを知っていれば 自ずと物質的豊かさは個人の幸福とは無関係でであることは明らかになる
どんなにカネがあっても 精神が貧乏なら他人から奪ってでもカネを集めようとするものである
他人からカネを奪っていたり 迷惑をかけていたりすれば 意識の深層では自己を肯定することができなくなり 結果的に「生き地獄」に陥るのである
自分の欲望を叶えることしか頭にない糞野郎を肯定することは 本当は「ヒト」の脳容積があればできないのである
だからこそ糞DQNはエタノールだのニコチンだの麻薬だの危険薬物だのといったモノで脳を麻痺させないといられないのである
本当に心の底から楽しめるものがあれば 脳を麻痺させているヒマなどないし 他人の不幸を放置することもできない
しかし 他人との比較による物質(外見や数量)的な豊かさに意識を奪われている者の場合は他人から奪うことや 他人に迷惑をかけることにばかり異常執着するようになるのである
ヒトという種の生物は 哺乳類であるため 子供は親に評価され好きになってもらいたいという願望がある
いわゆる「甘え」(土居健郎著「甘えの構造」参照)である
社会の多数他人から評価承認が得られれば 生存にとって有利だからこそ ヒトは他人からの評価承認を欲しがるのだが これはあくまで「子供の欲望」であって 社会的責任を負おうとしない利己的行動しか促さないため 多数がバカでも多数派に迎合し 自律的な社会的責任判断選択をしなくなるのである
しかし 哺乳類には母性(親性)というものもあり これは自分が死んだ後にも子供に幸福になって欲しいという願いが働き これが社会的責任判断選択の源ともなるのである
仏教において「菩薩(母性)界」というものは 「仏界」の次に位の高い精神状態であると説いているのはそのためである
どんなに知識があろうと どんなに考えが深かろうと 次世代の安寧を考慮に入れなければ人間性にはならない
だから声聞界 縁覚界よりも菩薩界の方が位が高いのである
「仏界」とは 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩の全てを持った「ヒト」において発揮される「人間性」や「倫理」のことであり
「ヒト」であるからこそ発揮されるのが人間性なのである
釈迦が「十界互具」と説いたのは そういう意味である
とはいえ
「人間性はヒトにおいて発揮されるもの」ではあるが
「ヒトでありさえすれば人間性は発揮されるもの」ではないのである
人間性を発揮する上において必要なのが知性や理性であり その知性や理性というものの本質を理解していなければ 「東大医学部の学生が毒ガステロ」という結果にも陥るのである
知性というものの本質を誤解し 「学力成績=知能」だと錯覚していたり
理性というものの重要性を蔑ろにして「理性には利己的利益追求の側面がある」(論理的に大間違いである)だの 「理性を超越した悟性」だのといった実証不能の観念に囚われていた方が気分(主観)的には安心で満足であろうが
その主観こそがヒトという種の生物の先天的欠陥をはらんでいるのである
多くのヒトは「生命尊重さえしておけば人道的だ」と「思う」のかも知れないが 原因を究明せずにただ「死ななければ生きている」という結果だけを求めることには人間性も倫理も伴わない
社会には様々な不公平や理不尽さが存在してはいるものの 現代の日本においては決して「ハズレ」とは言い切れない
ミャンマーに生まれたばっかりに軍警察に理不尽な弾圧をされることもある
太平洋戦争中であれば日本でも軍警察に理不尽な暴力を振るわれたこともある
戦国時代なら大半の農民は暴力者による理不尽で苛烈な略奪や暴力にさらされていたのである
歴史書には暴力的為政者を「英雄」扱いして歴史の全てであるかのように記されているが これは歴史研究者の主観に基づいた勝手な作り話であり 「報道バイアス」に喩えれば酷い政権寄りのプロパガンダでしかない
完璧な社会というものは永遠に来ないが 今よりはよりよい社会にすることは可能である
むしろ現状社会を完璧だと「思って」しまえば進歩はなくなるのであって 小さな欠陥を丹念に是正してゆく丁寧さによって社会の公平性や安全性は高まるのである
主観的な無力感に騙されずに 微力であることを忘れず 自分にできることを丁寧に根気強く続けることが必要であり 微力であっても多数や長い時間をかければ「大きな力」としても働くのである
しかし 動物としての先天的なヒトの習性傾向に無意識に流されていれば むしろ破綻への「大きな力」しか働くことはない
貧富格差がこれほどまでに拡大したのも 利己的利益追求への欲望が暴走したことによる「大きな力」が働いたからである
「本当の意思(目的意識)」に基づいた行動を 個人が自律的に社会的責任として負わないことには 多数による「大きな力」は方向性を失い暴走破綻への道を突き進むことになるのである
多数がバカなら 社会は崩壊にしか向かわない
これは当たり前の話である
本来なら私がいちいち語る程の話ですらない
Ende;
電話口で暗証番号を訊かれるとか
「職員がお伺いするのでキャッシュカードを渡して」だの
「封筒にキャッシュカードを入れて」とか
そんなもん詐欺に決まってるのに いくらNHKで手口を説明しても騙されるカモがいなくならない
なんなん?
もうNHKで詐欺の手口をいくら説明しても無駄なんじゃないだろうか
警察で騙されやすい人を騙してみて 実際に騙される状況を体験させないと自覚しないんじゃないだろうか
ま でも 騙される人って何度でも騙されるっていうから もう「通信の秘密」に関わる法律を改正しないとどうにもならん気がする
本人とか家族の許可を得て通話内容を警察で管理できるようにしても良いんじゃないかと思う
電話の通話内容の全てに一律に「通信の秘密」を適用する必要もないんじゃないかと思う
通話の冒頭で「この通話内容は公安委員会によって管理録音されています」って流すことで 特定の電話に関しては通信の秘密がないことを知らせておけば良いんじゃないだろうか
このままだと防戦一方
合法的に反撃に転じないと被害は減らないだろ
何か工夫できそうな気がするけどなぁ
Ende;
もし 「客観的事実は存在しない」ことが真であるとするならば
「客観的事実は存在しない」ことを客観的に証明することは不可能になる
この時点で「客観的事実は存在しない」という説は自己矛盾となり 意味がなくなる
マルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」などという話も同様で 存在しないことを論理客観的に証明することは出来ないのである
これはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」にも言えることである
「理性を批判する理論」とは 一体どういうことか
実際には「純粋理性批判」の内容とは 「理性を超越した悟性」などという実証不能の謎の能力によって 「絶対に知覚することの出来ない叡智界」に「人間は属している」という根拠のない決め付けに過ぎない
論理的根拠に基づく客観的検証というものを ヒトという種の生物は先天的 本能的に嫌う傾向があり 養老孟司だのイマヌエル:カントだのマルクス:ガブリエルだのといった根拠のないオカルト観念の方が大衆人気を集め易いのである
大衆人気のある話の方が金儲けにはなるため 一度金儲けのためにオカルト観念に基づいた話をする論者の著作を出版してしまうと これを否定する話は全て黙殺せざるを得なくなる
オカルトを科学か哲学であるかのように間違って出版していた頭の悪さや無責任さを隠蔽するためである
社会的に無責任であろうが何だろうが 養老孟司の著作が儲かるのであれば もはや養老孟司が科学を装ったオカルトであったとしても 会社組織の利益のを優先すれば今更訂正はできない
むしろ訂正なんぞしてしまえば 会社の信用をも失墜させ 損にしかならないため 自律的な社会的責任判断選択などしないのが現状の言論界の実態である
「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が 原発事故という「人災」の最も根源的な原因である
これはあらゆる「人災」において共通する「ヒト」の欠陥に由来する普遍的傾向である
間違いというものは誰にでもある だが 間違えたことを知りながら改めないことこそが「本当の間違い」なのである
自分が行っていたことが間違いだと知った時に これを改めるのは「自律」である
間違いを間違いだと知っていながら訂正しなければ これは「嘘」になってしまうのである
自己の生存のためには 自分が属する集団組織に迎合しておいた方が有利ではある
だが 自己の生存を優先したために社会全体の安全性が低下してしまえば 自己の生存にとっても害を為すのであり 利己的行動は合理的とは言えない
社会を構成する一員として 自律的な責任判断選択をすることは 結局は自分がこれからも生き続ける社会の利益ともなるのである
「情けは他人の為ならず」とは 自分がこれからも生活する社会環境への配慮を意味するものであり 結局は「自分の為」でもある
だが 本質的な自己 本質的な意思 本質的な目的を持たず 知らない者にとっては 目先の利益だけで頭がいっぱいになっているため 遺伝子レベルの貧乏性を強力に発揮して目先の利己的行動にばかり邁進するようになる
自分の行動が社会的責任には関与していないと 都合の良い卑屈さを発揮して無力さを正当化するのである
だが 一人の判断というものは 微力ではあっても無力ではない
むしろ 一人の判断の集積によって巨大な無責任というものは生まれるのである
「イジメにおける8割の傍観者」が典型である
イジメは傍観しておいた方が無難である
日和見に徹していれば犠牲にならずに済むからだ
そうやって無責任は放置されるのである
こうした無責任の放置の集積によって 社会は破綻への道程を避けることができなくなり 結果的な暴走に至るのである
Ende;
暴力者への屈服を「冷静さ」と形容しても そんなものは主観的恐怖を正当化する卑屈な態度でしかない
間違った行動を間違っていると主張することは 決して「冷静ではない」とは言えないのである
多数に対して異議を唱えていれば あたかも「冷静さを欠いている」かのように主観的には感じるのかも知れないが
それは「多数の主観」に過ぎず 何ら「正しい判断」であることの論証には全くならない
多数に迎合し 暴力者に屈服している方が 気分的には安心であろう
その安心という主観的感覚 本能的な危険回避こそが 統合的見地から見た「本当の危険性」を傍観放置する原因なのである
暴力者に屈服しておいた方が 自分の身の危険は避けられるであろうが その利己性こそがイジメを傍観放置する原因なのである
だからといって 自己犠牲が短絡的に人間性の論証になるわけではない
集団内部において 大多数が自律的な責任判断選択をしていれば 誰も犠牲を出さずに済むのである
イジメが発生した際に 傍観しがちな8割が一斉に反対すれば イジメは簡単に収束する
誰も犠牲にはならない
犠牲が出てしまうのは 大多数が事なかれ主義者日和見主義者であることが原因であって 決して「自己犠牲=人間性」ではないのである
◇
ハリー:ハーロウはサルにも好奇心があることを証明した
サルにある種のパズルを与えた場合 パズルを解く工程の度にレーズンを与えると かえって気が散ってパズルに集中できず むしろ何も与えない方がサルは勝手にパズルを解くようになったという
当時のアメリカで主流となっていた行動主義心理学への反証としてハーロウは評価を得た
エサを与えられないと行動を起こさないというのは もはやサル以下だということになる
学力成績という抽象化されたエサ(脳への報酬)を目的とした学習では 本質的な好奇心ではないため 自発的思考検証能力が著しく育まれず 教えたことを教えた通りにしか答えられないバカが出来上がるのである
自爆攻撃という暴力的最終解決も 「死後の世界における神からの祝福」や「永遠の命」といった実証不能の抽象的な利害もまたエサ(脳への報酬)によるものであり
日本軍の特攻隊も 「英霊」として合祀されることを栄誉とした戦時中の評価基準を鵜呑みにしたものであり そこに合理的価値が存在するのかどうかを全く自発的には考えないという頭の悪さが原因である
東大医学部学生によるオウム真理教によるテロも 学力が高いだけのバカで 主体的思考検証能力が著しく欠如していたことが原因であり
これらは全て他者から与えられる脳への報酬に対する条件反射的行動であり 「行動主義心理」そのものだと言える
Ende;
何年か前の夏に
夜中寝室にコガネムシの一種が入ってきちゃったことがあったのね
で カサコソと気になって眠れないので コガネムシの前に手を出したら自分から手にのぼってきたので そのまま平和的に屋外に誘導することができたのよ
ところが数日後 今度は居間に出没してきて ダンボール箱の底にいたので 今度は身体の両サイドを指でつまもうとしたら
全力で拒否られた
もう手足がちぎれててでも離さないつもりらしくて
ダンボール箱ごと持ち上げても離そうとはしない
さすがに手足がちぎれるところはエグいので見たくないので 仕方なしに箱から出てくるまで放置しておいた
何でそんな話を引っ張り出してきたのかというと
カメムシの扱いにも共通するのかなと思ったのよ
カメムシを屋外で見つけた時にも 指を出すと自分からのぼってくることがあって それだけならあの臭い匂いで反撃してきたりはしないのね
手にのぼらせても攻撃されたことがないのよ
でもさ 洗濯物にカメムシがついていたら どうしたって指でカメムシを両側からつまんで離そうとしがちでしょ
多分 それがダメなんだと思うのだ
甲虫ってカブトムシもそうなんだけど 身体を両側からつままれるのが物凄い苦手らしくて全力で抵抗してくる
この状態になるとカメムシは敵意むき出しで毒ガス攻撃を仕掛けてくるんじゃないかと思うのだ
虫を触るのが苦手なら ボール紙のようなものを頭の方から差し出してやれば カメムシはボール紙に自分からのぼってきてくれるんじゃないだろうか
そうすれば平和的に洗濯物から離れてくれるんじゃないかな
無理に引き剥がそうとするのが良くないんだと思う
そう思っているのでオイラはカメムシを背中からつまんだことがないので真偽はわからんのだが
多分そうだと思う
知らんけど
Ende;
社会安全性や公平性に配慮できない人間性の欠落したバカを尊敬することはできない
だが バカだと暴力や差別的正義を振り回す「強い」相手に迎合同調して服従しておいた方が本能的には安心満足感が得られるため バカは「勝てそうない相手には逆らわない」ことが「冷静」だと思っているのである
勝てそうにない相手に逆らわない方が 利己的生存価にとっては有利かも知れないが それは本質的には「理性」ではなく 「怖いから逆らわない」という情動であり本能である
そもそも生存自体が「目的」である論拠がない以上 利己的生存にとって有利な行動には何の正当性もないのである
「死ぬのが怖い」という先天的情動の強度程度をどんなに主張しても 先天的情動であるという時点で既に自己選択不可能なものであり 目的であることの論証には全くならず 自己の生存には「結果」以上の意味は存在しないのである
バカの意識の表層では 多数や暴力的相手には逆らわずに卑屈に服従することの方が主観的には安心満足であるため この主観を意識の本質だと錯覚していれば人間性を欠いた行動を採る暴力者にも迎合服従するようなるのである
意識の表層 つまり気分感情だけで行動するというのは 先天的な動物的行動習性に則って条件反射的無意識に行動しているに過ぎず 本質的な「人間としての意識」 すなはち「論理客観的検証性に基づいた行動選択」にはならない
ナチス政権下でナチスに迎合したのも
東電社内で上司の顔色を窺って原発の津波に対する脆弱性を放置したのも
エスカレーターでぶつかってくる相手に逆らわないのも
全部主観的気分による安心満足だけであって 当人は「冷静」だと思っていても 本当は「怖いから 本当はやるべきことをしたくない」という人間性を欠いた卑劣な発想を正当化する「こじつけ」や「はぐらかし」や「言い逃れ」という「嘘」に過ぎない
大多数の人民が暴力者に迎合服従していれば 暴力者が実権を掌握することになる イジメが起きても子供の8割は傍観放置者だと言われており これは大人でも同じことである
ヒトは 多数でありさえすれば「正常」だと思うように出来ている
多数派でありさえすれば主観的に安心だからである
そして 「自分だけは絶対に大丈夫」という正常性バイアスによって 自分の主観を信じ込んでいた方が満足なため 全てを疑わなくなるようになることで 論理客観的に深く考えることを一切しなくなるのである
ヒトという種の生物は 物事を論理客観的に深く考えるようには出来ていない
「深く考えよう」とか「これってもしかして間違ってる?」といった素朴な疑問に基づいた論理検証性(理性)が働くようには先天的には出来ていないのである
だからミャンマー軍事政権のような暴力が未だに発生するのである
ヒトは決して「知的生命体」などではない
全然知的ではないのである
知性というと 知識の「量」だけだと多くのヒトは「思う」のかも知れないが 間違ったことを鵜呑みにしていて知能とは到底言えない
論理検証性に基づき真偽を見分けられないことには知能でも何でもないのである
大衆の多くは学力偏差値さえ高ければ「頭が良い」と思っているが これもまた錯覚である
東大医学部の学生が地下鉄に毒ガスを撒いて「人類の救済だ」などと言い出したことからも ISILの幹部の多くが高学歴なことからも 学力成績と知能には相関がないのである
学力偏差値などが高ければ 世間的に優遇されるものだといった利己的利益のために学力成績に執着しているバカであれば 動機自体が利己的利益を目的にしているという根源的間違いには配慮が働かない
知能とは 利己的利益のためのものではなく 社会安全性や持続可能性や平等公平性を目的とした「人間としての知能」として機能しなければ これは知能でも何でもないのである
「サルの正義」も「神の正義」も要らない そういう「他人の正義」は人間には要らないのである
「抽象化されたエサにつられて知識の量を増やしている」だけのバカは多いが それは既存の評価軸に論理客観的根拠が伴うのかどうかを考えたこともなければ 主体的選択すらしていないのである
学問というものを「高い地位身分を獲得すれば有利な立場に立てる」という利己的利益を目的としている時点で人間性を欠いているのであって 「福沢諭吉を疑わない」という盲目性を全く自省していないのである
ヒトという種の生物 大多数の衆愚は どうしても利己的利益という生存価に有利な行動だけを目的にしがちな習性があるが こうした遺伝子レベルの貧乏性による欲望の暴走を自覚しないことには 社会安全性や持続可能性や平等公平性は蔑ろにされ 破綻滅亡への道筋を変えることはできないのである
ヒトはバカでいた方が気分的には楽である
物事を深く考え 社会の諸問題にも憂慮していれば楽しくはない
だが 他人からの評価に左右されない純粋な個人的な楽しみを持っていれば 楽しくはなくても配慮せざるを得ない
自分も楽しみたいし 他人の楽しみにも共感することはできる
プラモデルでもコスプレでも粘土細工でも虫取りでも天体観測でも包丁砥ぎでも何でも構わないから 人畜無害な楽しみに熱中することは 人畜無害なら誰にも遠慮する必要はない
まあ プラモデルは石油系樹脂や有機溶剤を使うことにはなるが 何せ物凄いちっちゃいものなので 社会全体の汚染化学物質の総量からしたら極めて微量に過ぎず むしろ趣味としては地球環境には優しいものなのである
「10トントラック乗り心地が良いわー」と称して用もないのにカネに任せて温室効果ガスを撒き散らすことから比べれば 他愛のない趣味である
タミヤやバンダイといった製造者には植物由来樹脂への転換などは求める必要はあるかも知れないが それは個人でどうにかなるものではない
プラモデルに熱中することもまた「バカみたい」ではあろう
トカゲ探して砂漠で穴掘りすることも「バカみたい」ではある
ストラディヴァリウスに取り憑かれていたら「恐怖」すら感じるかも知れない
だが 人畜無害なバカなら それは本質的にはバカではない
それを「バカみたい」と思っている観念や多数の常識の方が間違っているのである
バカで結構
ナチス政権に反対してスイス山中で自決を余儀なくされたことを「愚か」だと形容している方が「本当の愚か者」なのである
ハイデガーのようにナチスに迎合しておいた方が生存にとって有利で「賢い」と 衆愚は「思う」のであろうが それは「衆愚の価値観」でしかない
何が本当のバカなのか 論理客観的根拠に基づいた見分ける能力なくして知能でも何でもないのである
Ende;
「貴ガス」?
なんだそれと思ってググったら「希ガス」から改名したんだそうな
ああビックリ
しかも2005年の話だとか
ふぁっ!
なぜ変えた!
理由もなく勝手に変えるな!
困惑するだろ!
Ende;
ITmediaの記事を読もうとしてたら
「ismedia?」とか訊かれて困惑するなど
Googleが何か勘違いしているのか
それとも本当に偽装ページなのか
キモすぎてわけがわからない
Ende;
19時過ぎに玄関のチャイムが鳴ったので出たら
「読売新聞の購読料の請求に来ました」とのこと
しかしウチは新聞自体を取ってない旨伝えると「失礼しました」と帰って行った
ふと思ったのだが もし読売新聞を購読していたら ニセモノでも疑うことなく払ってしまうのではないか
いつもと違う人が集金に来たら販売店に問い合わせた方が良いかもしれない
Ende;