簾 満月「バスの助手席」

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矢作橋 (東海道歩き旅・三河の国)

2022-02-18 | Weblog
「豊川矢矧川おほや川(男川)とて三つの川有れば三河の国というなん」



 これが「三河」の国名の由来とも言われているが、定説にはなっていな
いそうだ。
しかしこのように名前が挙げられている事から考えても、岡崎宿の西を流
れる矢作川は、古来より三河を代表する川であることに違いは無いようだ。



 江戸幕府は街道の整備を進める一方、治安上の理由から東海道筋の大
川に橋を架けることを厳しく制限していた。
僅かに「六ごうの橋、よしだの大橋、やはぎの橋、せたのから橋」位で、
その他の川は、基本は人力による徒渡しである。
ただ小さな川には、粗末な木橋や土橋は架けられていたようだ。



 しかし「神君家康公」の生誕地岡崎は例外らしく、慶長6(1601)年に
は土橋が架けられている。長さ二百八間(凡そ380m)、橋杭70柱と言う、
堂々とした作りで、当時は日本一の長さを誇り、街道筋では名の知れた橋
であった。その後何度も大水で流されているが、その都度改修され、橋が
維持されて来た。



 広重の「東海道五十三次之内 岡崎」では、この「矢矧之橋」が描かれ
ている。
御油では、旅籠の前で客を引く留め女を描き、次の赤坂では旅籠で寛ぐ旅
人の姿と、化粧に余念が無い宿場女郎の姿を描いている。
これらの一連の画は、その連続性を匂わせているので、次の場面としては、
岡崎女郎衆が描かれても良いように思うが違っている。



 代々譜代大名が治める「おかざきさま」を憚っての忖度か、と思いたく
もなるが、大名行列が渡る矢矧橋の図である。
是は女郎衆以上に当時の矢矧之橋の存在が大きかったからであろう。

 岡崎城下を出れば、ここから三河の国最後の宿場・知立まで、3里半
11町22間(およそ15㎞)の長丁場が待っている。(続)





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