江戸時代、東海道を旅する大名や幕府公用人、勅使、公家などが泊まっ
たとされる本陣は、土地の有力者が務めていた。
ここにも、中町(南土山村)の「堤家」と、吉川町(北土山村)の「土山
家」の二軒の本陣が有った。
「堤家本陣」は家号を「二階屋」と呼び、代々堤忠左衛門を名乗った。
門構えと玄関を持つ建坪は196坪と伝えられている。
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もう一方の「土山家本陣」は、三代将軍家光が上洛する折に設けられ
た、敷地建坪325坪を誇る重厚な構えの遺構が今日に残されている。
初代土山家は甲賀武士土山鹿之助の末裔で、土山喜左衛門を名乗り、
代々引き継いだ家督は十代に及び、明治初期の本陣制度廃止迄続きその
役割を終えた。
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敷地内の奥に明治天皇聖蹟碑がある。
明治元(1868)年、明治天皇は行幸の際本陣で一泊され、十七歳の誕生
日を迎えられた。
天皇即位最初の誕生日に当り、翌日この本陣で第一回天長節が行われた。
この日土山の住民に対して、神酒、鯣(するめ)が下賜されたという。
横に漢詩碑が有り、碑には後に当地を訪れた仏教哲学者の井上圓了
(1858~1919)がこの逸話にいたく感動し、祝賀の様子を即興で詠ん
だ漢詩が刻まれている。
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『鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿停る。
維新の正に是、天長節なり。恩賜の酒肴を今尚馨』
本陣の廻りにも「旅籠俵屋跡」、「旅籠山形屋跡」「旅籠近江屋跡」
の石標があり、土山公民館には「宿場のけごみ」の石柱が建っていた。
「げごみ」とは、「足を止めるところ」、「足を休めるところ」という
意味で、公民館の玄関脇には「土山宿お休処」の看板が掲げられている。(続)
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