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当初高野山までの道程は、和歌山から紀ノ川を遡り、町石道を経て高野山に到
るルートで考えていた。しかし色々と調べを進めるうちに「高野街道」と呼ばれる古
道が何本も、高野山に向け開かれていたことが解ってきた。
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それによると、一般に「高野街道」と呼ばれる古道は、「高野参拝道」の総称で、
正しくは、京都の石清水八幡宮から生駒山の西麓を南下して河内長野に至る「東
高野街道」と、商人町として栄えた堺から大阪・狭山などを経て、道中で大阪・四天
王寺からの「下高野街道」や、大阪・杭全神社から延びる「中高野街道」を吸収し、
河内長野に到る「西高野街道」などが有ると言う。
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この西と東の街道は河内長野で合流し、その後は一本の「高野街道・京大阪道」
として「高野七口」の一つ「不動坂口」に到る参詣道であった。
この道は江戸時代に入ると圧倒的に利用者が増え、街道には旅籠や茶店も建て
られ、大そうな賑わいを見せるようになったらしい。
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因みにこの「高野七口」とは、「大門口」「竜神口」「相ノ浦口」「大滝口」「大峰口」
「黒河口」のことで、当時高野山は女人禁制で女性は山に入れなかったため、この
七口には女性たちのお籠り堂として女人堂が建てられていたと言う。
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明治5年この女人禁制は解かれることに成ったが、現在この「不動坂口」には唯
一女人堂が残されているそうだ。
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「高野街道」と呼ばれる古道が有る以上、何としてもこの街道を歩かなければ話
は始まらない。(写真:四国遍路道・松尾峠越え)(続)
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