まこの時間

毎日の生活の中の小さな癒しと、笑いを求めて。

父の思い出

2020-05-09 | 暮らし
父が生前書いていた自分史を読み直した。
父が志願兵で鹿屋の航空隊にいた頃の話や、わたしとの事を書いたもの。
自分の幼いころの思い出などを書いたものだった。
わたしがいらなくなったワープロを父は丁度町の区長をしている時に、必要に迫られて一生懸命覚えたのだった。
その後そのワープロで自分史を書いた。


時折、電話をしてきて、「お前のワープロはおかしい、神社と打っても変換せんぞ・・」と、言う。「どう打った?」「じんじやと打ったが、出てこんし、かみやしろと打った!!」と、言う。「じんじや」・・「神社のじゃは、小さいじゃ・・小さい、や、って打つんやよ」「あ、そうか・・・そうか・・」父は、年老いても何でもチャレンジした。
殿と政治の話をしたり、苦手なカタカナ語が世の中にあふれかえるのを、ノートに書いて、分からない時は婿である殿に訊いていた。
覚えたての言葉を殿に話していて「わしは高等小学校しかでとらんで、あんちゃん教えてくれ」と、殿に素直に質問しては喜んでいた。
このブログの事件簿は、殆ど父のことだ。父はいつも事件を起こしていたな。

話をもどして、父の原稿の話だ。「わたしと娘」と題されたもの。
病気ばかりしていた私に対する父の気持ちがありありと残っていた。
また、弟が生まれたとき、父は稲刈りをしていた近所の人に「男が生まれた!!」と、言いふらしていたらしい。母の出産の為に、ミゼットを買って無免許で乗り回していた昭和39年。
わたしはこの年、伝染病「赤痢」になって、隔離病棟に入院した。
小学校3年だったわたしの掃除場所が、幼稚園続きの廊下で、幼稚園に赤痢が広がっていた。うがい手洗いをしましょうと、先生に言われたかもしれないが、マスクもしない、消毒液もない。手洗いも十分でなかったのだと思う。園児が多かったが、同級生も3人いた。弟が乳飲み子だったため、父が付き添い入院してくれた。しかし、その時、父の母親が胃がんで危ない状態だった。
わたしは2週間で退院したが、父は保菌者となって、1週間延長。
わたしは退院するとき、友達のおかあさんとお風呂に入った。
父にとっては最悪の年だっただろう。迷惑をかけたものだ。
改めて思い出した。今のコロナのように爆発的にはらなかったものの、乳飲み子を抱えた母が、保健所の人たちが来て家中消毒をされて、その布団を干しながら情けなくて泣けたそうだ。
また、近所の人の手前、恥ずかしい気もしただろう。広い田畑に囲まれていたので、街中ではないことが少しは良かったかもしれないが。

今のコロナでは、自分がかからないことが、何よりもの貢献であるというのが分かる。自分一人の為に、家族を巻き込み、病院は隔離病棟なるものを用意し、医療現場は四苦八苦するのだ。それでも、発症するのは本人にとっては辛いことだ。

国の対応が遅いだの、中国が悪いだのと、果ては陰謀では?とかいう人たちがいるが、非力な自分に何が出来るか考えると、自粛し、マスク、手洗い、消毒を励行するしかないのである。
こんな中でも、県を越えて「駐車場閉鎖していましたが、〇〇の山へ行きました。」とか、言われると返す言葉がない。今この時期に山に登ってけがをしてヘリコプターを呼んだというニュースを聞くとがっかりする。

コロナ対応の批判は評論家に任せておけばいい。
わたしたちは、正しいニュースを見極め出来ることをする。
そんな中で、医療現場にビニルの上着をせっせと作ったり、手作りマスクを寄付したり行動を起こしている人たちに頭が下がる。
経済を考えると心も痛む。どうか、あの居酒屋が持ちこたえますように。

父の思い出が、いつの間にかコロナにすり替わってしまった。
安らかな顔で天寿を全うしたと思えることが救いだ。









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