過日、伝達講習会が小松の道場であり参加した。
6月なので、絽や紗の着物は早いかと単衣の稽古着のような着物を着た。
昨年、10月の「着物騒動」の時に偽紋で縫い付けた着物だ。
例の偽紋の着物だが、さして不都合もなく終えることが出来て良かった。
Nさんにこっそり、背中の紋と胸の紋が違うことをいうと、
「いいですね。裏紋っていうのもありますしね」と、言われた。
なるほど、物知りなNさんには、いつも学ぶことがある。
さて、講習会は中央からはあえて伝達することがないという。
それなら、「伝達」という冠はおかしいねと思う。
当然ながら、毎年受講するともらえる修了証はない。
伝達していないからだとか。
それでも、先輩先生や高段者の先生からの講習は気づきをもたらせてくれる。
お互いの研修会のようで楽しかった。人数も少なかったので弓もしっかり引くことが出来て良かった。
中りのないのはいかがなものかと、中央の上の方からため息が聞こえてきそうだが、2020年3月に自分で書いていてすっかり忘れていたことに、コメントを頂いて、それを読み直していて、もう一度気持ちを整えた。
阿波研造先生の言葉「すべて中れば曲芸にすぎません。外れるから武道である」のだと。正射をして中るのである。
「弓を引くのに快と不快を分けてはなりません。悪い射に腹を立ててはなりません。良い射に喜んではなりません。中てようとしてはなりません。離そうとしてはなりません」
そういえば、調子の悪い時ほど、真摯に的に向かって自身を見つめなおそうとしている。良い時は、天才かもって思ったとたん奈落に落ちる。
「人を殺す剣や弓は、人を生かす訓練にかわり、武道が宗教と絡む所以である」と、再度書き記したい。
わたしの過去からの伝達である。
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